MAZE ~迷路~
二 前兆
 満開の桜の木々に囲まれたカフェのテラスで、智(たくみ)は最終チェックのために書類に目を通していた。
「でも、楽しみだな。美波(みなみ)が暮らしていたイギリスに新婚旅行で行かれるなんてさ。でも、美波にしたら、なんだか里帰りみたいでつまらないかな?」
 智は最後の旅行日程表に目をやりながら、美波に話しかけた。
「つまらないんなら、まだ変えられるし、嫌なら嫌だって言ってくれて良いんだよ。」
 返事をしない美波に、智は言いながら視線を書類から美波の方に移動させた。
 美波は無表情のまま、桜の木を見上げていた。
「美波、美波。そんなに式や新婚旅行の打ち合わせはつまらない?」
 智は茶化すように言うと、美波の手を握った。
「まさか、今から考え直すなんて、言わないよな。」
 そう言いながら、智は美波の手を軽く引っ張った。
「美波? 具合でも悪いの?」
 智の声が始めて聞こえたような美波の様子に、智は少し怪訝な顔をした。
「美波、大丈夫?」
「ごめん。ちょっと考え事してて。」
 美波は言うと、何事もなかったように笑って見せた。
「なに、二人の未来よりも大切な事?」
 智は茶目っ気たっぷりに言うと、美波の手を自分の手で包み込んだ。
「どっか悪いんじゃないのか? 最近、美波おかしいぞ。」
 智の心配げな瞳に、美波は頭を横に振って見せた。
「なんでもないの。ちょっと疲れたかな。ほら、式の手配とか、親戚まわりとか、ドレスの仮縫いとか、いっぱいスケジュールが詰まってるでしょ。なんだか、疲れ気味なの。」
 美波が言うと、智は少し安心した表情になった。
「なら良いんだ。まあ、疲れ過ぎってのは良くないけど。」
 智は言うと、優しく微笑み返した。


 智が美波と出会ったのは、親友の敦(おさむ)の車が壊れてくれたおかげだった。
当時、イギリスに住んでいた美波が、夏休みを利用して日本に帰ってくるという話は、予定が決まってから毎日のように敦から聞かされていた。智にしてみれば、従妹が帰ってくることが嬉しくてたまらないという敦の様子が、少し不自然に見えたのは言うまでもなかった。
 しかし、敦がその従妹と結婚するつもりだと打ち明けてからは、恋人を待つ男の心理は智にも良くわかった。しかし、智が会ってみたいと言うと、敦は『美波は一目ぼれされやすいタイプだから、智みたいに一目ぼれしやすい男には逢わせられない』というばかりで、敦がノーと言えば言うほど、逆に智は興味をひかれて行った。
 その美波が帰国する日の朝、智にしてみれば、幸運としか言いようがなかったが、偶然にも敦の車が故障し、敦としては親友の智に車を出してくれるように頼むはめになったのだった。
 従妹に逢わせたがらない敦に、智は車を貸すと言ったが、敦は智を誘ってくれた。しかし、その心遣いがあだになった事は言うまでもなかった。
 敦の心配どおり、智は美波に一目ぼれし、美波もやがて智に惹かれるようになった。
 智は敦に対する良心の呵責に苛まれながらも、美波との密かな逢瀬を重ねていった。敦の気持ちを知っている智としては、美波との事を敦に告げることが出来なかったが、美波はあっさりと敦に言ってのけたようだった。
 怒りと、悲しみの中で、敦は『美波が智を選んだんだ。幸せにしてやってくれ。』とだけ、智に言った。
 休みが終わり、再びイギリスに帰った美波との長距離恋愛は、智の情熱で何とか切り抜けた。そして、いざ結婚という運びになってから、智はオイルタンカーの船長をしている美波の父の帰りを待つために、半年近くもの間お預けを食らう羽目になった。
 日頃、一緒に過ごす時間のない美波の父は、想像以上にガードが固く、結婚の約束をしてから許しを取るまでに、一年近くも時間がかかり、美波が帰国してすぐに結婚するはずだった二人は、美波が仕事を楽しめるようになるほどの時間を費やしていた。
 やっとの事で許しを貰った智は、美波の父が次に帰国する時に式を挙げるよう、手配を始めたところだった。


「美波、式の話をはじめてから、なんか気乗りしないみたいだね。」
 智は嫌味ではなく、思った通りの事を口にした。しかし、智が想像もしていなかったほど、当惑し、困ったような、そんな影が美波の瞳の中に浮かんでは消えていった。
「美波、なにか隠してない? 何か、心配事とか、あるんじゃないの?」
 智は優しく美波に問い掛けた。
「なんでもないわ。本当に疲れてるだけ。」
 美波は言うと、笑って見せた。
「次の休みに温泉に行くの、中止にしようか?」
 智の言葉に、美波は頭を横に振った。
「大丈夫よ。ママも出かけるし、一人で家に残るって言ったら心配するわ。」
 美波の言葉に、智も頷いた。
「じゃあ、温泉行きは予定通りにしよう。」
 智の言葉に、美波は笑みを浮かべ、二人は新婚旅行の計画の打ち合わせを続けた。どことなく、美波は心ここにあらずと言った雰囲気だったが、それでも打ち合わせに支障が出るほどではなかったので、智はそれ以上なにも言わなかった。

☆☆☆

 泊りがけの同窓会に出席する母の有紀子(ゆきこ)を見送りながら、美波はボストンバックを玄関まで運んだ。
「じゃあ、行ってくるけど、美波も気をつけるのよ。」
 有紀子の言葉に、美波は頷いて見せた。
「智さん、間に合わないかしら?」
 有紀子は腕時計を見ながら、玄関のドアーを開けた。
「大丈夫よ。箱根の温泉に行くだけなんだから。智の運転技術は知ってるでしょ。」
 美波の言葉に、有紀子も微笑みながら頷いた。
「じゃあ、電車の時間があるから。」
 有紀子は言うと、しっかりと荷物の詰まったボストンバックに手をかけた。
「留守の間は、敦君が戸締りを確認してくれる事になってるから。」
 有紀子は言うと、もう一度美波の顔を見つめた。
「最近、美波顔色が良くないから、しっかり休んでくるのよ。じゃあ、行ってくるわ。」
 有紀子がそう言い終えたところに、智の運転するルノー5が姿を現した。
「お母さん、駅までお送りしますよ。遅れちゃってすいません。」
 智は言うと、エンジンを切らないまま、運転席から飛び降りた。
 智のルノー5は、わざわざイギリスから輸入した右ハンドルのルノー5で、日本ではちょっと珍しいものだった。銀色に輝くルノー5は、有紀子の前で助手席のドアーが開かれるのを待っているようだった。
「智さん、これからずっと運転でしょう。」
 有紀子が言うと、智はすばやくボストンバックを受け取り、後部座席にしまいこんだ。
「大丈夫ですよ。お母さん。」
 智は、にっこりと笑みを浮かべて答えた。
「じゃあ、戸締りと最後の支度してるわ。」
 美波は言うと、智に微笑みかけた。
「すぐもどるよ。」
 智は言うと、有紀子を車に乗せ、すぐに出発した。
 二人を見送った美波は、家に入ると二階から戸締りの確認を始めた。


 両親の寝室、自分の部屋、屋根裏の換気窓、客間、丁寧に窓を一つ一つ確認していると、突然、後ろに人の気配を感じた。
 驚いて美波が振り返ると、後ろに敦(おさむ)が立っていた。
「びっくりした。」
 美波が言うと、敦は残念そうに頭を横に振った。
「相変わらず勘が良いな。驚かそうと思ったのに。」
 敦は言うと、肩をすくめて見せた。
「おばさんのお出かけには、間に合わなかったな。」
 続けて言う敦に、美波は頭を振って見せた。
「ちょっと遅かったね。いま智が、車で駅まで送ってくれてるの。」
 美波は言いながら、戸締りの確認を続けた。
「そんなに心配しなくていいぞ。俺、今日からこっちに泊まるから。」
 敦は言うと、にんまりと笑って見せた。
「片付けが大変だから、パーティー、飲み会、ドンちゃん騒ぎは駄目よ。」
 美波は言うと、ちょっと怖い目で敦を見つめた。
「分かってるよ。おばさんにも怒られたし、親父とお袋にもさんざん怒られたからな。だけど、言わせて貰えば、あれは俺のせいじゃなくて、俺を裏切って、親友が俺の最愛の美波と結婚する事になって、みんなが慰めに来てくれたせいなんだからな。悪いのは俺じゃない。」
 敦は言うと、美波の目の下の隈になりかけた黒いくすみに目を留めた。
「調子が悪そうだな。」
 敦は心配げに言うと、美波の事を抱きしめた。
「敦?」
 美波は言うと、敦の事を見上げた。
 他人が見たら、このまま二人がその唇を重ねるに違いないと思うほど、二人の距離は近づいていた。
「体が弱いんだから、無理しないで休めばいい。結婚するんだし、仕事だって辞めたってかまわないんだろ。」
 敦が言うと、美波は無言で頷いた。
 そんな敦の後ろで、智の咳払いが聞こえた。
「敦、イエローカードだ。そういうのは、俺の台詞だ。それから、花嫁から離れてもらおう。」
 智は言うと、美波の手を引っぱって敦から引き離した。
「まったく、油断も隙もないな。」
 笑いながら智が言うと、敦は美波の手を引っぱり返した。
「おっと待った。まだ、智は家族じゃないだろ。こういう親密な触れ合いは、身内には許されてるんだよ。」
 美波の両手を片方ずつ握っている智と敦に、美波は軽くため息をついて見せた。
「ほら智、駐禁切られる前に行くわよ。」
 美波が言うと、敦は諦めて美波の手を離した。
「智、安全運転で頼むぜ。美波、疲れてるから、車に酔うかもしれないからな。」
 敦は言うと、手を振った。
「お任せあれ。留守番よろしく。」
 智は言うと、美波の手をとって階段を下りていった。
 敦は、客間の窓を確認すると、続いて一階に下りていった。


「じゃあ、ゆっくりな。」
 敦は車に乗り込んだ美波に言うと、もう一度手を振った。
「行って来るね。」
 美波は言うと、敦に手を振り返した。智も軽く手を上げて敦に挨拶してから、ルノー5を発進させた。
 車が見えなくなるまで見守っていた敦は、寂しげにため息をつくと、家に入った。

☆☆☆
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