MAZE ~迷路~
三 事実 其の一
 智(たくみ)は腕時計を見ながら、なかなか姿を現さない敦(おさむ)の事を待った。
 梅雨の寒い日で、窓ガラスがくもって見えなくなるほど外は冷え込み、そのせいか通りからも人影が姿を消していた。
 箱根から帰ってすぐに、美波(みなみ)との約束を果たすために敦を呼び出そうとした智だったが、週末以外に時間をつくり、敦を呼び出すとなると、思いのほか時間がかかり、いつの間にか、早い梅雨が街を水浸しにしていた。
 智が電話で敦を誘うと、敦はいかにも訝しげで、智の誘いに何か裏があるに違いないと言いたげな様子だった。事実、美波との交際を始めて以来、智が敦を呼び出すことは稀で、どちらかと言えば、敦にが智を呼び出されては、美波との交際の進捗を報告させられていた事の方が多かった。そんなこともあり、敦を何とか口説き、やっと待ち合わせに漕ぎ着けるまでに、智はたっぷり一時間近くの時間を費やし、わざわざ有給休暇まで取得して、敦との時間を作ったのは、言うまでもなく、美波への愛のためだった。
「悪い、遅くなった。」
 智が時計に目をやり、一瞬、入り口のドアーから目を離した隙に、敦は店に入ってきたようだった。
「こっちこそ悪かった。無理言って・・・・・・。」
 智は言うと、ウェイトレスを呼び止めた。
「ホットのココアで。」
 敦が注文すると、智はどうやって切り出したら言いか、未だに迷っている自分に戸惑った。
「えらく早いな。いつもは決めるまでに時間かかるのに。」
 思わず、智は関係のないことを口にして、時間を稼いだ。
「ああ。いつもお前に、時間かかりすぎるって言われるから、歩きながら決めてきたんだ。」
 敦は言うと、暖かいおしぼりで手を拭いた。
「で、結婚を控えた幸せな男が、愛する女性を奪われた哀れな男に何の用だ?」
 美波との婚約以来、ずっとこの口調で智を責め続けている敦に、智は苦笑して見せた。
「実は、美波の事。俺の知らない、美波の事を敦に聞いておきたいと思って。」
 智は何気なさを装いながら切り出したが、一瞬のうちに敦の表情は智の知らない厳しい表情に変わっていた。
「おばさんとおじさんから聞いていないなら、俺から話す事は何もない。」
 想像以上に強硬な敦の態度に、智は驚きを隠せなかった。
「敦、俺は友達として聞いてるんだ。これから、敦に代わって美波を護って行かなくてはならない人間として、知っておいた方が良い事はないかと、そういう意味で聞いてるんだ。」
 智が言うと、敦はしばらくの間、何も言わなかった。
 敦は、注文したホットココアが運ばれてきても、口をつけようともしなかった。
 もう一度、『敦?』と、智が声をかけようとしたその時、『出よう』と、敦が言った。
「でるって、まだ・・・・・・。」
 智の言葉を敦は、完全に無視した。
 テーブルの上に置かれた伝票を無造作に掴むと、智を席に残したまま、敦はどんどんレジへと歩いていった。

(・・・・・・・・いったい、どんな秘密があるって言うんだ?・・・・・・・・)

 敦の様子に、智は不安を隠せなかった。

☆☆☆

 結局のところ、敦が向かっていたのは、智のマンションだった。
「開けてくれ。」
 敦は言うと、智を促した。智も、言われるまま鍵を開けると敦を部屋に入れた。
「邪魔するぞ。」
 敦は言うと、椅子にどっかりと腰をおろした。
 智の部屋は、いつ美波が来てもいいように、男の一人住まいとは思えないほど、きちんと整理整頓されていた。
「何か飲むか?」
 智も形式的に問いかけては見たが、敦は頭を横に振るだけだった。
「座れよ。」
 敦の迫力に、智は無言のまま向かいの椅子に腰をおろした。
「美波から頼まれたのか?」
 あまりにも単刀直入な問いかけに、智はどきりとしたものの、なんとか頭を横に振り、自然な様子を繕った。
「そうか。じゃあ、これから俺が話す事は、絶対に美波の耳に入れないと、約束してもらわなくちゃならない。」
 敦の刺すような瞳が、嘘を見破るのではと、智は心配になりながらも、もう一度、無言で頷いて見せた。
「約束するな?」
 再度問いかける敦の言葉は、智に返事を求めていた。
「わかった、約束する。」
 智は言うと、敦に続けてくれるよう合図した。
「絢子(あやこ)ちゃんは、美波の親友だった。多分、名前は聞いた事があると思う。」
 敦の言葉に、智は頷いて見せた。
「その当時、絢子ちゃんは美波の大学の同級生で夛々木(たたき)って男と、縁あって付き合っていた。」
 智は敦の言葉に耳を傾けた。

☆☆☆

 美波が絢子の口から、『卒業したら、私たち結婚するつもりなの』という報告を受けたのは、留学に旅立つ直前の事だった。
 最初は驚いた美波だったが、あまり家族とうまくいっていない絢子が現実逃避の為に結婚を選んだのではなく、本当に哲(さとる)を愛しているからだと確信してからは、影になり日向になり、二人の交際の手助けをしていた。
 地元では知らない人はいないという、大病院の院長をしている絢子の養父は、当然のことながら、医師ではない哲との交際に反対しており、結婚など論外といって、全く聞く耳を持たない状態だった。
 絢子の交際や生活には、細かい制限が設けられ、高校時代の門限は夕方六時、大学生になっても門限は夕方七時半だった。基本的に外泊、異性との交際は一切禁止、同性との交際にも、いちいち父親が面接してから許可するほどの干渉ぶりだった。そんな中、なぜか美波だけは特別に気に入られ、美波の家であれば外泊も許され、門限に遅れる場合も電話連絡で罰を受けることなく許されるという状態が長い間続いていた。
 どちらかといえば、養父は美波との親密な付き合いを奨励していたし、何かにつけて、美波を家に招待するように絢子にも言いつけていた。そのせいもあり、美波も何度か絢子の家を訪れた事があり、絢子の養父と義兄にも面識があった。
 そんな美波が留学する事になり、絢子と哲のために、絢子の家まで二人の交際を認めてくれるように頼みに行った事もあった。その美波の誠意をくんでくれたのか、美波が留学に旅立つ直前には、『恋人』としては認められないまでも、『友達』として、最低限の電話の取次ぎや、週末に出かける事は認めてもらえるようになった。


 哲は、美波の同級生とはいえ、二人より四歳ほど年上だった。
 学費を貯める為に、一浪して入学した大学だったが、入学直後に父親が病気で倒れたため、哲は入学直後から三年にわたり休学し、更に父親の治療費と自分の学費を貯めてからの復学だった。それでも、哲の父親の病気は完治せず、哲は医療費を支払い続けるために、夏休み、冬休みには、昼間と夜間のダブルでバイトをこなして、父親の医療費と自分の生活費を賄っていた。
 哲は、廃車同然に古びてしまっていた父親の車を自分で整備して、絢子をドライブに連れて行った。
海の好きな絢子は、地図を見ながら、門限までに帰れる海を探しては計画を練るのを楽しみにしていた。遠出をして門限に間に合わないような時は、美波が一緒に行く事にして、ごまかした事も何度かあった。
 海に行く日は、絢子は必ず手作りのお弁当を持って出かけた。それは、レストランに並んで時間を無駄にしない為と、哲に必要以上の負担をかけないようにするためだった。


 その日も、絢子は早起きしてお弁当を作ると、待ち合わせの場所に向かった。哲は、愛車で絢子を迎えに来ていた。
「お待たせ。」
 絢子は言うと、特性のハーブティーの入った銀色のポットを右手に、まだ暖かいご飯のつまったお弁当箱の入ったバスケットを左手に持って哲に見せた。
「いつも通り、時間前だよ。」
 哲は言うと、絢子のためにドアーを開けてくれた。
「今日はちょっと遠いから、すこし飛ばすよ。覆面がいないことを祈っててね。」
 運転席に乗り込んだ哲は言うと、すぐに車を発進させた。


 高速を乗り継ぎ、二人はお昼過ぎに目的地にたどり着いた。一度は、駐車場に車を止めて歩いて海辺に行こうとした二人だったが、絢子が地図で車の入れる場所を見つけてから、再び車を走らせ始めた。
 地図に従ってたどり着いた場所は、大海原が見下ろせる絶壁の上だった。
「すごい、こんなところまで来れるんだ。」
 絢子はガードレールを乗り越えて、更に崖の淵までじりじりと歩きながら言った。
「危ない! 絢子、危ないから戻って。早く。」
 哲は言うと、慌ててガードレールを跨いだ。
「大丈夫だよ、哲。落ちたりしないって。」
 絢子は言うと、更に崖に歩み寄ろうとした。
『君たち!』
 突然の声に、二人は慌てて振り返った。
「そこの看板が見えないのかね。危険と書いてあるだろう。それに、ガードレールは、乗り越えるものではなく・・・・・・・・。」
 小言が途中で途切れたので、絢子はゆっくりと顔を上げた。
「お嬢さんじゃありませんか。」
 大きなリュックサックを背負った中年の男性は言うと、驚いたように絢子の事を見つめた。
「先生に、お父様にお世話になってる者です。」
 そう言われてみると、なんとなく絢子も相手に見覚えがあるような気がした。
「何度か、お嬢さんにもお目にかかってるんですよ。」
 男は嬉しそうに言うと、ニコニコと笑って見せた。
「先ほどは失礼しました。でも、危ないですよ。崖ってのは脆いですからね。」
 男の言葉に、絢子は苦笑してみせた。
「すいません。海が好きなので。どうしても上から覗いてみたくて。」
 絢子が言うと、男は『お気をつけて』と言い残して、歩き去っていった。
「びっくりしたね。」
 絢子は言うと、哲に舌を出して見せた。
「驚きだね。こんなところで、絢子の親父さんの知り合いに会うなんて。」
 哲は言うと、絢子を抱き上げてガードレールを跨いだ。
「でも、あの人、どこから来たんだろう。さっきまでいなかったのに。」
 絢子は、首をかしげた。
「確かに、この辺はトレッキングって感じの場所じゃないし。」
 哲も、怪訝そうな顔をした。
「リュックしょってたよね。でも、山側へは入れないし。それに、突然わいてきて、突然消えたっぽくない?」
 既に見えなくなった男のことを捜すように、絢子は周りを見回した。
「変だよな。車は何台も通るけど、歩いてる人なんて、見ないよな。」

(・・・・・・・・もしかして、俺たちのこと監視してたとか? そんな事ないよな・・・・・・・・)

 哲は考えながら、車のドアーを開けた。
「ここは風が強いから、お昼は車の中でいいかな?」
「うん。その方が、二人っきりって気分になるもんね。」
 絢子は車に乗り込むと、バスケットを開けた。
「今日のテーマは健康なんだよ。まず、患者さんから貰った特性のハーブティーね。良くわかんないんだけど、なんかね、すごく体にいいんだって。」
 絢子は言うと、銀色のポットのお茶をカップに注いだ。
「へえ、変わった香りだなぁ~。」
 哲は言いうと、とりあえず一口飲んでみた。ハーブティーは、苦味のある味がした。
「なんか、薬っぽいにおいするな~。」
 哲の言葉に、絢子もにおいをかいでみた。
「確かに。でも、くすりって、ハーブとかからも作るんでしょ。ふつうの、ミントとかの方が良かったね。今度は、普通のお茶にするね。・・・・・・はい、お弁当。」
 絢子は、お弁当箱の蓋をあけてから哲に手渡した。
「すっごい豪華!」
 日頃は、粗食に耐えている哲は、上等な素材がぎっしり詰まったお弁当に、感激して言った。
「哲の好物を頑張ってみました。」
 絢子は得意げに微笑むと、自分のお弁当のふたを開けた。
「絢子、料理うまいよなぁ。」
 哲は一口食べては、絢子の腕を褒めた。
「このお茶も、苦いけどけっこういける。」
 哲は絢子を喜ばすために、まずいと思いながらもお茶を褒めた。


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