英雄は愛のしらべをご所望である
思い切り手を下へと引っ張られたセシリアが地面に転がることはなかったが、勢いそのままに尻餅をつき、背中を固くて平らなものに打ち付けた。
驚きと恐怖で漏れそうになる悲鳴は、大きな手で塞がれる。


「んー、んーっ!」


口元を覆われたセシリアは、抵抗しようと暴れるも、抱きとめる形で身動きを封じられた。


「黙ってろ」


諦めることなく身体を捻り、暴れていたセシリアは、耳元で聞こえた掠れた声にビクリと身体を震わし、動きを止める。それが男性の声だったからではない。ましてや恐怖でもない。記憶の中に残っていた声とそっくりだったからだ。

抵抗をやめたセシリア。それに気づいたのか、拘束する手が緩められる。その隙を逃さず、セシリアは勢いよく振り返った。


「っ! ……ど、うして」


一番最初に視界に映ったのは、しゅっとした顎と首筋だった。そのまま視線を上げれば、闇に溶け込むほど黒い瞳と視線が絡む。


「ウィルが、何故ここに?」
「それはこっちの台詞だけどな」


息がかかるくらい近い距離から聞こえてくる脱力した声に、セシリアは一気に頬を染める。自分を抱きしめた手がウィルだとわかっただけで、頭に血が上りそうだった。


「わ、私は師匠の付き添いでーー」


回らない頭でなんとか答えようとするセシリアだったが、その言葉は再び大きな手によって消し去られてしまった。


「わかったから、今は黙ってろ」


セシリアとウィルの影が一つに見えるほど、二人の距離は近い。セシリアはなんとか頷いて返すものの、口元と背中から伝わってくる熱でウィルのことを意識してしまい、ぎこちない動きになってしまった。


風がさわさわと音を立て、優しく草花を撫でていく。先ほどまで少し肌寒く感じていた夜風が、火照っている身体にちょうどよい。

速まる鼓動がウィルに伝わる前に何とか落ち着こうと、セシリアは目一杯息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
身体に取り込んだ冷たい空気が頭に登った熱を冷やし、セシリアの脳が少しずつ動き出す。

そして、ふっと気づいた。
目の前は生垣に囲まれていて何も見えない状態。それはつまり、周りからも自分たちが見えないことを意味している。

どうして黙る以前に、隠れる必要があるのか。セシリアは僅かに首を傾げた。

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