不器用な僕たちの恋愛事情
渡来家の謙人の自室に二人はいた。
兄に二の舞を踏むなよと釘を刺され、カウチのひじ掛けに頬杖をつく謙人は不機嫌だ。
家政婦の代わりに母親がお茶を持って来たのも面白くない。
「さっきから入れ代わり立ち代わり何なの? 落ち着いて話も出来ないんだけど」
「お茶くらいいいでしょ。持って来たって。佐保ちゃんに会うの久しぶりだし。ねえ?」
謙人の隣に座る佐保に目配せする。
佐保は反応に困り、笑って誤魔化した。
「あと行きますから、まず二人で話させて下さい。心配なら無用ですから」
こうチョロチョロされたら、その気があっても萎える。
母親が出て行くのを待ち、やっと二人になれたところで、謙人は紅茶を含んだ。
佐保も続いて口に含む。
お互い何から話したものか、考えあぐねていた。
壁掛け時計の規則正しい音。
紅茶を半分ほど飲んで、やっと謙人が口を開いた。
「何で、俺には話してくれなかったの? ガキだったし、頼りない奴だったかも知れないけど、佐保だけが傷ついて、何事もなかったように隠されて、俺がどんな気持ちになったか分かる?」
唇を噛んで伏し目がちの佐保。
謙人はため息をついて続けた。
「俺に話したところで結果は同じだったかも知れないけど、妊娠させて中絶までさせたのに、誰も俺を怒らなかった。俺が一番怒られるべきなのに、誰も怒らないんだ! 俺の子だったのに、俺の知らない所で大人たちが動いて、何もなかったように振舞われて! そんなの俺を否定してる。佐保もだ。…佐保が、一番ヤな奴だ」
つうっと涙が頬を伝う。
ずっと胸の奥に澱(おり)となっていた思い。
「詰ってくれたら “ごめん” って言えたのに」
好きと言ってくれた言葉さえ、信じられなくなった。
謝らせてもくれない佐保が、どれほど憎かった事か。
憎くて憎くて、それ以上に恋しかった。
声を殺した謙人の嗚咽。
謙人を抱きしめ、背中を擦り、何度も何度も「ごめんなさい」を繰り返した。
佐保を抱きしめ返し、その胸で泣き疲れるまで泣いた。
胸の中の謙人の髪を撫でながら、静かに話し出した。
「私より先に妊娠に気が付いたのはお母さんだったの。経験者は侮れないわよね」
少しおどけたように、自らの緊張を解した。
「…最初は、誰の子か言うつもりはなかったの。でも私の妊娠の事を渡来の家に黙っておけない、ましてや言えないような男の子供だったら尚更、顔向け出来ないって。渡来の家に知られてしまうのは、仕方ない事だと思ったけど、謙人に知られたくなかった。謙人の反応が怖かったの」
まだ十六歳になったばかりの謙人が、妊娠を受け止められるとは思えなかった。
逃げると思っていたわけじゃなく、困惑して佐保を遠ざける姿を見たくなかったのだ。
顔を上げ、見入ってくる謙人。
「結局、謙人の子だって白状したけど、早過ぎるって両家の親に言われて、中絶しなきゃならないなら、謙人に黙っていて欲しいって頼んだ。謙人が知らないままで済むなら、そうしたかったの。それが却って謙人を傷付ける事になるなんて思ってなかった」
佐保のヒヤリとした手が頬を撫でた。
「堕ろしてから、何食わぬ顔をして謙人を見るのがツラくて、逃げ出したの」
「佐保ひとりで抱えて欲しくなかった」
「うん。気持ちが落ち着いて、ほとぼりが冷めたら連絡するつもりだった。でもその前に謙人にバレて、荒れてるって祐人ちゃんに言われたら、連絡出来なくなっちゃった」
タイミングを失い、ずるずると逃げていた。
祖父からの連絡がなければ、きっと今でも帰国出来なかっただろう。
謙人は佐保の肩に腕を回す。
「ねえ佐保。もし…産んでいいって言われてたら、どうしてた?」
「産んでた。好きな人の子供だもの」
恐る恐る聞いた謙人の手を握り、佐保は何のてらいもなく答えた。
「そっか。…良かった。そう言ってくれて」
現実的ではないけど。
誰でもない、佐保が肯定してくれるだけで、心が溶けていく。
キスをしようとして躊躇った謙人に、佐保から口づける。
謙人は少し驚いた顔をして、微笑む佐保を見、優しく唇を啄(ついば)んだ。
佐保を抱きしめ、何気に壁掛け時計に目をやった。
「ちょっと待ってて」
そう言って謙人はウォークインクローゼットに姿を隠し、間もなく段ボールを抱えて出て来た。
「……謙人?」
ぱちぱちと瞬きする佐保の前にソレを置く。
「クリスマスと誕生日三年分。送る場所分からなかったから」
腹を立てていても、当人が不在で寂しさが増しても、忘れることはなかった。
佐保は段ボールを覗き込んで、「バカね」とくすくす笑う。
「お互い様だろ。佐保だって送って来てたじゃないか。いいから開けてよ」
目の前にしゃがみ込んで、膝に頬杖をつく。
「今年のクリスマスは豪華だわ」
ひとつひとつ大切に開けていく。
佐保を見る謙人の顔は、愛しそうに微笑んでいる。
全てのプレゼントに、佐保を思う言葉が綴られたメッセージカードが添えられていて、目を通した瞳に涙が浮かんでいた。
「一番のプレゼントは、謙人だわ。ありがとう。今までごめんね」
首に抱き着かれ、バランスを崩して尻もちを着いたところで、ノックとともに兄が覗き込んで来た。
「…佐保。久々に帰って来て、謙人を襲うってどうかな?」
「襲ってないですっ」
「今日うちに泊まらせるからって連絡したけど、謙人の部屋がいい?」
「祐人ちゃん! だから襲ってないですから。もお! 謙人も何か言って」
「……俺の部屋に泊まる?」
「バカっ!!」
もちろん祐人のは冗談だが、謙人は結構本気で聞いてる。
時間も時間なので、前科者の様子を見がてら、ゲストルームに案内するため祐人が寄越されたのだが、広げられたプレゼントの数々を眺めまわして、兄がにやっと笑う。
祐人は佐保の前にしゃがんで、彼女が好みそうなワンピースを手に取った。
「佐保。男が女に服をプレゼントするのは、それを脱がすためだって知ってる?」
「そうなの? 謙人」
胡乱な目で佐保に見られ、余計な事を言ってくれる兄を睨む。
「そんなつもりじゃなかったけど」
「無意識の意識ってやつ? 下着はないの?」
「兄さん!! あるわけないでしょ!」
箱の中を覗き込んだ兄を押しやって、威嚇する弟の頭をポンポンすると、祐人は一人納得しながら頷いている。
「まあそうだよね。どこで誰が見てるか分からないものな。大変だよね、人気商売は」
意味深な言葉を吐き、祐人はすっと立ち上がると「部屋に案内するよ」と佐保に手を差し出した。
チラリと謙人を見、小さく頷いたのを確認すると、佐保は祐人の手を取って部屋を出て行った。
翌日、朝も早くから祖父の書斎に呼ばれ、何とか身支度はしたものの、まだ寝ぼけ眼だった謙人だが、気味が悪いくらい上機嫌の祖父を見て、一気に眠気が吹っ飛んだ。
ここまで機嫌が良いのは、何年ぶりの事だろう。
「おはようございます。じいさま」
「おはよう謙人。そこに座りなさい」
言われたままソファーに腰掛けると、祖父は机の前を離れ、謙人の向かいに腰掛けた。
(キモ……キモイ、じいさま)
満面の笑顔なんて気持ち悪すぎる。
(いつも通り、しかめっ面でいてくれないと居心地悪くて吐きそうだ)
耐え難い空気に、尻の座りの悪い謙人が心の悲鳴を上げようとした時、ノックして佐保が入って来た。
「おじいさま。おはようございます」
「おお佐保。おはよう。久しぶりだね。また綺麗になった」
「ありがとうございます。おじいさまもお変りないようで。昨夜は遅くにお邪魔して済みませんでした」
「佐保なら何時でも歓迎だよ」
深々と頭を垂れる佐保を見て、祖父の締まりのない笑顔に、謙人はケッて顔をする。
佐保は苦笑しながら謙人の隣に腰掛けた。
「二人を呼んだのは他でもない。結納のことだ」
「それ昨日聞いて驚いたんですけど。しかも佐保から聞くってどういう事です?」
「だから今話してる」
「当人無視して、話すの遅すぎませんか?」
「遅かれ早かれ、こうなる事は分かっていただろう」
「そうですけど」
暖簾に腕押しだ。
いつも噛み合わない。
「結納は、年明けの二日。今日の十時に宝石商が来るから、二人で指輪を選びなさい。それと、謙人。学生のうちは許すが、音楽の事は早めにケリをつけるように。大学を卒業したら、系列の会社に入ってもらう。でなければ佐保が可哀想だ」
「なに勝手な事言ってんですか!? こっちだって遊びじゃないんです」
「そう変わらんよ。不安定な仕事をしている男に、先方が安心して嫁に出せると思うか?」
「今のご時世、どんな仕事してたって一緒じゃないですか! 一流企業と呼ばれる会社でも、明日には潰れる事だってあるのに!」
「それでも、安心感は違う。ましてやお前は渡来の人間なんだ。祐人だけに責任を押し付けるのか? 兄を補佐するのが弟の役目だろう」
返す言葉がない。
祖父の言ってる事はいちいち正しい。
謙人は唇を噛み、握る拳に力を込めた。
「センター試験の翌週の日曜に、各界の方々を招いて婚約披露のパーティーを行う。そのつもりでいなさい」
「なっ! 兄さんがまだ結婚もしてないのに、弟が先に婚約披露なんておかしいでしょう」
「佐保が帰って来る以上、お前に変な虫でも付いたら敵わんからな」
まただ。
また謙人の意思を無視する。
「変な虫なんて付かせませんよ。行こう佐保」
佐保の手を取って、書斎を後にする。
大分離れてから、謙人は重いため息をついた。
「謙人。大丈夫?」
「平気。いつもの事でしょ」
「おじいさま、私には凄く優しいのに」
「あのスケベじじい」
チッと舌打ちする。「謙人!」と小さく窘(たしな)めて、佐保は慌てて周囲を確認した。
「佐保。今日この後、家に帰る?」
「そのつもりだったけど、何かあるの?」
「指輪買いに行こう。指輪までじいさまのお仕着せとかムカつく。指輪くらい俺の稼ぎでプレゼントさせて。安物になるかも知れないけど」
至極まじめな顔。
佐保に是非はない。
「謙人がくれる物なら関係ない」
「本当に?」
佐保が大きく頷くのを見ると、ほっとして気の抜けた笑顔。
「…良かった。桁違いの指輪がいいとか言われなくて」
心底安堵している謙人を見て、佐保はくすくす笑った。