マドンナブルー
間もなくして、勝則は東京に移り住んだ。大空に羽ばたく鳥の心持で毎日を過ごした。何せ、美大では一日中好きな絵を描いていられるのだ。それも堂々と。彼に友人もできた。佐伯という軟派な男である。佐伯は美大構内で異彩を放つ、体育会系の風体の勝則に興味を示し彼に近づいたのだが、勝則にとって佐伯は、友人というよりむしろ、悪友に思えた。なぜなら佐伯は、事あるごとに、純朴な勝則を黒く染めようと企てるのだ。

 勝則に酒を教えたのも佐伯だった。はじめ、勝則は佐伯の執拗な酒の誘いを、未成年だからという理由で拒み続けた。こんなとき佐伯は、いつも不道理な理屈をつけて説得を試みる。

「日本の法律では、大学生なら未成年でも酒を飲んでもいいことになってるんだぜ。だって女の子を口説くのに、気付け薬が必要だろ?」

 またあるときは、

「勝則が飲み会に来てくれないと困るんだよ。いつも誰かぶっ倒れるんだ。お前なら、軽々持ち上げて運べるだろ?酒飲まなくてもいいから、介抱役で来てくれよ」

 という具合だった。何度目かの誘いで根負けした勝則は、飲み会に参加した。彼が、アルコールを口にしたのはこのときが初めてだった。そのおいしさに魅了され、自制心が麻痺し始めたところに、佐伯を筆頭とした友人たちは、勝則に五杯も六杯も酒を飲ませた。

 結局、勝則はつぶれた。彼は渋谷の繁華街の中を、友人五人がかりで担架のように持ち上げられ、周囲からの失笑を浴びながら運ばれた。身長百九十センチに、百キロを超す体重の、ターミネーターのような体格の勝則が弱々しく運ばれるさまは滑稽だった。以来彼は、酒はたしなむ程度にとどめる姿勢を貫いた。

 佐伯は勝則に、女の子のひっかけかたも伝授しようとした。佐伯は、十二歳よりガールフレンドが尽きたことがないという。高校時代、最高で三人の女の子と同時に交際したことがあると豪語する彼は、ナンパをしに街へ繰り出そうとしきりに勝則を誘った。もちろん、勝則はそれを拒否した。理由を問われた彼は、女性を性の対象として見られないという姿勢を、愚直に打ち明けてしまった。

「お前はゲイなのか!」

 と佐伯は面白がった。勝則はあわてて、また馬鹿正直に、セックスに嫌悪感を抱いているという胸の内をさらけ出してしまった。佐伯はさらに面白がり、勝則を「童貞のターミネーター」などと呼び立てては執拗にからかった。

 勝則は、自分の思想が異常であると認識していた。しかしそれによる不都合はなく、むしろ感覚が研ぎ澄まされた。邪魔となる雑念がない分、彼の美への追及には、他の生徒にはない鋭敏さがあった。

                    ****

 美大に通う男子学生の楽しみといったら、やはりヌードデッサンは外せないだろう。女性の裸身を隅から隅まで、至近距離から拝めるのだ。しかしそこに、猥褻さはない。そんな乱れた考えを持ち込んではいけない。あくまで崇高な芸術であり、芸術のために惜しげもなく肌をさらしてくれるモデルは、敬意に値する存在である。・・・・・・といった暗黙のルールが、学生たちの間に浸透していた。

 しかし、そのルールが破られる出来事が起こった。ヌードデッサンのモデルとしてやってきたその女性を、教授は「山田ゆき子さん」とだけ紹介した。モデルの中には在学している大学名や学部など、べらべらと素性を明かす者もいるが、たいていは多くを語らない。いくらヌードデッサンが崇高な芸術行為だといえども、見ず知らずの大勢の前で肌をさらすことは強い羞恥が伴う。・・・・・・このようなモデルの心理を理解していても、そのゆき子という女の素性を探りたくなる魅力が、彼女にはあった。

 波打つ髪は黒くつややかで、腰の辺りまであった。スッと高い鼻のせいか、エキゾチックな印象である。長く密生したまつ毛の下に覗いた、伏し目がちの大きな瞳は、濡れて光っていた。それは、羞恥のためというよりも、彼女の身の上の憂いを表しているようで、どこかミステリアスな印象を与え、ゆき子という女の魅力をさらに引き立てた。

 ゆき子が一糸まとわぬ姿になると、教室内に漂う空気はまるで違うものとなった。女子学生たちの羨望のまなざし。すでに裸身を見慣れたはずの、男子学生たちの生唾を飲み込む気配と、平常へと心身を立て直そうとあがく心中が、キンと張りつめた空気に紛れ込んだ。

 しかし、やはり勝則だけは違った。彼がゆき子の姿態から感受したものは、「美」のみである。雑念が入り込む余地がないほど美的欲求で満たされた彼は、ただひたすらゆき子の美しさを表現しようと、紙上へと神経を注ぎ込んだ。

                      ****

 その授業が終わり、ゆき子は立ち去った。休憩時間、男子学生たちは、ゆき子から受けた印象をこぞって分かち合った。その内容は、ゆき子の美しさを色欲に結びつけたものであり、暗黙のルールを破った男子たちは、猥談で盛り上がった。

 もちろん勝則はそれに交じることなく、一人席に座って読書をしていた。そこへ、ニヤニヤと薄笑いを浮かべた佐伯が近づいてきた。

「よお勝則!お前なに本なんか読んでるんだよ」

 佐伯は、勝則からパッと本を取り上げた。勝則の視界に佐伯の薄笑いが入り、勝則は、あからさまに表情を曇らせた。ゆき子の美しさを汚すような、男子学生たちの猥談から意識をそらそうと、本の中へ逃げ込んでいたのだが、佐伯の顔を見たことで現実に引き戻され、一層うっとうしい気持ちとなった。

「佐伯、なんか用かよ・・・・・・」

 勝則はぶっきらぼうに言った。佐伯は薄笑いを浮かべたまま、いやらしいことを言ってきた。

「さっきの女のアソコを見て、お前のせがれは起きたか?」
「そういう話はやめろよ。興味ないって言っただろ。お前の頭の中はそれしかないのか?」
「当たり前だろ。四六時中、俺の頭の中は女のアソコで満たされてるよ。ところで・・・・・・」

 佐伯は片腕を勝則の首に回し、ぐいっと自分の方へ引き寄せた。そして勝則の耳元で声をひそめ、

「さっきの女、お前に惚れたぜ」
「はあ・・・・・・?」

 勝則は、佐伯の悪趣味な冗談にイラ立った。

「僕をからかうの、いい加減やめろよ」

 佐伯はいくぶん真面目な顔となり、

「からかってないって。あの女、お前のことばかり見てたぜ。恋愛博士の俺が言うんだから間違いないって」

 いつから恋愛博士という肩書きを得たのかと、勝則は不審そうに佐伯を見た。嘲る色はないものの、やはり勝則の目に映る佐伯の顔は、どこかうさんくさい。

「もうどっか行けよ。僕に構わないでくれ」

 勝則は佐伯の腕をふり払った。佐伯は初心な彼を見て笑い出した。

「ともかく、今度あの女がうちの大学に来たら、必ず声かけろよ。そして、お前のでかいせがれをいい加減起こしてもらえ」

 佐伯はそう言い残すと、笑いながら立ち去った。勝則は佐伯の後姿を、うっとうしい気持ちで眺めた。背をかがめ、脚を投げ出すようにして彼は歩く。彼の背は、軟派な線を描いている。勝則は、佐伯の後姿にうっとうしさを感じる一方で、羨望を抱いている自分に気付いた。そのとたん、佐伯が言った、「あの女お前に惚れたぜ」という言葉がよみがえり、目の裏に焼きついているゆき子の裸身が脳裏に広がった。白く、つややかな凝脂のような肌。緩やかな曲線が、成熟した体を取り囲む・・・・・・。

 それに触れたら、どんな感触が返ってくるのかと、勝則は無意識に想像していた。あたたかいのだろうか。柔らかいのだろうか。さらさらとするのか、それとも湿っているのだろうか・・・・・・。

 しかし、彼はすぐに自我を取り戻した。無意識だったとはいえ、よからぬ想像をした自分を軽蔑した。そのため彼は、ゆき子の存在を頭から払拭させようと試みた。                                                  

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