マドンナブルー
ゆき子という名の女の存在が、勝則の心の片隅にこびりつき、いつまでも彼の心に留まったということは事実である。しかし、ゆき子がふたたび彼の大学に姿を現すことはなかった。
しかし、ゆき子が大学を訪れてから半年ほどたったある日、勝則は意外な場所で彼女と再会した。いや、双方に面識があるような意味合いの強い、「再会」という言葉は不適切である。おそらくゆき子のほうは、一度訪れたかぎりの大学の、大勢の生徒の中の一人である勝則に対して面識があるはずがない。そのため、ただ見かけたという言葉がふさわしい。
勝則がゆき子を見かけたのは、彼の自宅近くの書店だった。一瞬彼は、雑誌を立ち読む女性をゆき子と気付かずに、素通りするところだった。そのときの彼女は、小花模様のレモン色のミニスカートに白のセーターといういでたちで、いかにも女子大生という感じだった。しかし、勝則の中にあるゆき子の像は、それと違った。記憶の中のゆき子は、女子大生というよりもっと年上の、成熟しきった色気があった。人生における様々な機微を知り尽くした、中年女性の趣さえ感じられた。
白いローブをまとったゆき子と、それを取り払った彼女の裸身しか知らない勝則は、着衣によって人はこんなにも印象が違ってくるのかと、ゆき子から少し離れた場所にたたずんで、彼女の横顔を眺めていた。
ふいに、勝則の脳裏で、「あの女お前に惚れたぜ」という佐伯の言葉が響いた。ゆき子に声をかけたい衝動に駆られたが、同時に佐伯の薄笑いも思い出され、勝則は強い気持ちを残しながらも、ゆき子に背を向け立ち去った。
しかし驚いたことに、ゆき子のほうから勝則に話しかけてきた。
「あのう、すみません・・・・・・」
勝則が目当ての本を探していると、若い女性の遠慮がちな声が、彼の背に当たった。声のほうへ振り返ると、彼の目は、ゆき子の顔を認めた。初めて見る顔だ、と彼は思った。彼の記憶にある、どこか陰を感じさせるものでなく、ゆき子の顔には若々しい笑顔がおさめられていた。しかし高く通った鼻筋に、長いまつげに縁取られた濡れた大きな目は、たしかにゆき子のものである。
ゆき子は、ただ自分の顔を凝視するのみで、何の反応も示さない青年に困惑し、再度、「あのう・・・・・・」と尋ねた。その声で、勝則はハッと我に返った。眼球をすばやく左右に動かし、ゆき子の笑顔が、たしかに自分に向けられているのを確認した。彼はやっとの思いで、「はい・・・・・・」とだけ返した。
「美大の学生さんですよね?私のこと覚えてませんか?以前、デッサンモデルをつとめた者なのですが」
「ああ、そういえば、あなたを思い出しました」
そう言った後、勝則は白々しい自分の発言に腹を立てた。彼はひそかに、ふたたびゆき子と接点を持つのを心待ちにしていたのだ。
「たしか、山田さんとおっしゃいましたね」
するとゆき子は、何の話?とでも言うように、長いまつげの生えているまぶたを瞬かせた。そして何かを思い出した彼女は、かわいらしい声で笑い出した。
「私、あのときそう名乗ってたのね。それ偽名です。本当は由利子といいます。鬼ヶ原由利子。すごく強そうな名前でしょ」
勝則は、彼女が偽名を名乗っていたのをいぶかるより先に、目の前の可憐な女性からは想像もつかない、いかめしい名前が彼女の口から飛び出したことに面食らった。
「安藤勝則です。よろしく」
と彼も返した。一まず、お互いの自己紹介は済んだ。しかし、彼はそれに続く言葉を導き出せず、そんな自分を呪いたくなった。
「鬼ヶ原さん、腹減ってませんか?この近くにうまい店があるのですが・・・・・・」
非常な労力を注いで、口の外へと押し出したこの言葉の陰には、佐伯が言った、「あの女お前に惚れたぜ」という言葉が一役買っていた。もちろん、勝則はまったく鵜呑みにしてはいないが、気付け薬となり、彼を気負わせたのは確かである。
「ちょうどお腹がすいていたところです。ぜひ連れていってください」
ゆき子改め、由利子という女の口からその言葉を聞けたとき、勝則はとろけそうになっていた。
しかし、ゆき子が大学を訪れてから半年ほどたったある日、勝則は意外な場所で彼女と再会した。いや、双方に面識があるような意味合いの強い、「再会」という言葉は不適切である。おそらくゆき子のほうは、一度訪れたかぎりの大学の、大勢の生徒の中の一人である勝則に対して面識があるはずがない。そのため、ただ見かけたという言葉がふさわしい。
勝則がゆき子を見かけたのは、彼の自宅近くの書店だった。一瞬彼は、雑誌を立ち読む女性をゆき子と気付かずに、素通りするところだった。そのときの彼女は、小花模様のレモン色のミニスカートに白のセーターといういでたちで、いかにも女子大生という感じだった。しかし、勝則の中にあるゆき子の像は、それと違った。記憶の中のゆき子は、女子大生というよりもっと年上の、成熟しきった色気があった。人生における様々な機微を知り尽くした、中年女性の趣さえ感じられた。
白いローブをまとったゆき子と、それを取り払った彼女の裸身しか知らない勝則は、着衣によって人はこんなにも印象が違ってくるのかと、ゆき子から少し離れた場所にたたずんで、彼女の横顔を眺めていた。
ふいに、勝則の脳裏で、「あの女お前に惚れたぜ」という佐伯の言葉が響いた。ゆき子に声をかけたい衝動に駆られたが、同時に佐伯の薄笑いも思い出され、勝則は強い気持ちを残しながらも、ゆき子に背を向け立ち去った。
しかし驚いたことに、ゆき子のほうから勝則に話しかけてきた。
「あのう、すみません・・・・・・」
勝則が目当ての本を探していると、若い女性の遠慮がちな声が、彼の背に当たった。声のほうへ振り返ると、彼の目は、ゆき子の顔を認めた。初めて見る顔だ、と彼は思った。彼の記憶にある、どこか陰を感じさせるものでなく、ゆき子の顔には若々しい笑顔がおさめられていた。しかし高く通った鼻筋に、長いまつげに縁取られた濡れた大きな目は、たしかにゆき子のものである。
ゆき子は、ただ自分の顔を凝視するのみで、何の反応も示さない青年に困惑し、再度、「あのう・・・・・・」と尋ねた。その声で、勝則はハッと我に返った。眼球をすばやく左右に動かし、ゆき子の笑顔が、たしかに自分に向けられているのを確認した。彼はやっとの思いで、「はい・・・・・・」とだけ返した。
「美大の学生さんですよね?私のこと覚えてませんか?以前、デッサンモデルをつとめた者なのですが」
「ああ、そういえば、あなたを思い出しました」
そう言った後、勝則は白々しい自分の発言に腹を立てた。彼はひそかに、ふたたびゆき子と接点を持つのを心待ちにしていたのだ。
「たしか、山田さんとおっしゃいましたね」
するとゆき子は、何の話?とでも言うように、長いまつげの生えているまぶたを瞬かせた。そして何かを思い出した彼女は、かわいらしい声で笑い出した。
「私、あのときそう名乗ってたのね。それ偽名です。本当は由利子といいます。鬼ヶ原由利子。すごく強そうな名前でしょ」
勝則は、彼女が偽名を名乗っていたのをいぶかるより先に、目の前の可憐な女性からは想像もつかない、いかめしい名前が彼女の口から飛び出したことに面食らった。
「安藤勝則です。よろしく」
と彼も返した。一まず、お互いの自己紹介は済んだ。しかし、彼はそれに続く言葉を導き出せず、そんな自分を呪いたくなった。
「鬼ヶ原さん、腹減ってませんか?この近くにうまい店があるのですが・・・・・・」
非常な労力を注いで、口の外へと押し出したこの言葉の陰には、佐伯が言った、「あの女お前に惚れたぜ」という言葉が一役買っていた。もちろん、勝則はまったく鵜呑みにしてはいないが、気付け薬となり、彼を気負わせたのは確かである。
「ちょうどお腹がすいていたところです。ぜひ連れていってください」
ゆき子改め、由利子という女の口からその言葉を聞けたとき、勝則はとろけそうになっていた。