マドンナブルー
 安藤勝則は、昭和五十四年、父、啓一と母、信子の間に生を受けた。第四子にして長男だった。

 啓一の両親は、彼が幼少のころ立て続けに病死した。そのため兄と共に、親戚の家を転々と渡り歩く幼少期を強いられた。啓一少年の唯一の心の支えであり、心ときめかせたことは、街角のテレビで放送されるプロレス中継だった。まだ敗戦の傷が色濃く残る日本で、体の大きな米人レスラー相手に空手チョップを決める力道山の姿は、彼の憧れであり目標となった。

<腕っ節さえ強ければ、人生の成功者になれるんだ!>

 啓一の確固たる信念はこうして生まれた。

 彼は中学を卒業すると、親戚の家を飛び出しプロレスの門をたたいた。花形レスラーとは言えないまでも、レスラーとして活躍していることを、彼は誇りに思っていた。そのさなか彼は結婚し、子宝にも恵まれた。しかし順風満帆な彼の人生に、突如陰りが差した。長年酷使されてきた彼の体は、重度の椎間板ヘルニアという形で悲鳴を上げたのだ。手術とリハビリにより、日常生活に支障をきたさないまでに回復したが、ふたたびリング内の、厳酷な世界に身をさらすことは不可能だった。

 その後彼は、失意の中会社員へと転身したが、情熱の炎を消しきることは困難だった。その行き場を失った残火は、息子である勝則へと向けられた。

 しかし、現実は啓一の期待を裏切った。幼少の勝則は小柄なうえ病弱だった。おとなしく優しい性格で、ちゃんばらごっこなどの男の子の遊びに、彼が興味を示すことはなかった。

 しかし啓一はあきらめなかった。信念に従い、勝則を自分の理想へと導こうとした彼は、勝則の小学校入学と同時に柔道道場へと入門させた。勝則は道場では師範にしごかれ、自宅では父にしごかれた。長年プロレス界に身を置いていた彼は、体の作り方を熟知していた。そのため筋力トレーニングから食事、生活態度に至るまで、啓一の細かな監視のもと勝則は育った。

 例えばこんな出来事があった。勝則が九歳のとき、父の不在の晩、テレビで『マリリンにあいたい』という涙を誘う映画を放送したことがあった。彼は羽を伸ばして、姉たちと共にその映画を観た。もともと温厚な彼は、その映画で涙した。そして運悪くそのさなか、酩酊した父が帰宅した。

 ふいに、勝則の小さな体は吹っ飛んだ。

「女々しいもの見て泣きやがって!」

 啓一は勝則を殴り、そうののしった。母と姉たちには決して手を上げない父であったが、息子の勝則には容赦なかった。

 またあるとき、こんな出来事もあった。学業において、勝則は常に秀才であったが、とりわけ図画工作が得意だった。彼の作品が、優秀作品として校内に展示されることもあった。しかし、啓一は決して勝則をほめなかった。

「絵なんかうまくたって、何になるんだ!この女々しいやつ!」

 そう罵倒するだけだった。こんな少年時代を過ごした勝則の心はますます萎縮し、偏執的となり、彼の思想を逸脱させたものへと変えていった。

 それは勝則が十三歳のときのある日の放課後、彼の逸脱した思想を植え込んだ出来事は、図書室で起こった。美術に強い興味を持つ彼は、学校の図書室で美術関連の本を読むことを、ひそかな楽しみとしていた。その日彼は、何気なく手にした画集の一枚の絵画に、強い衝撃を受けた。

 ボッティチェリの『ウ”ィーナス誕生』である。描かれた女性のあまりの美しさに、彼は息を呑んだ。心身が困憊状態にあった彼は、救いの手を差し伸べるように、その絵画に魅せられた。過度の感動を受けた。その過度の感動は、勝則の異性への意識内容を逸脱させた。同級生の男子たちは皆、女性の衣服の下を思い描き、それを性欲へとぶつけていく。しかし勝則はそうではなかった。確かに彼も、異性の体を想像した。しかし、それは性欲につながらない。美的欲求とでも表現しようか、あくまで裸身美を追求したものであり、女性が宝石に魅せられるのと同じ感性である。やがてその追求は、彼の中の女性像を神々しいものに位置づけた。同時にセックスをゆがんだ欲望の先に結ばれる、神を汚す行為とみなし、忌み嫌うようになった。

 しかし健康な十代男子の、盛んに精子を製造しては、古いものを押し出そうとする力には勝てなかった。そのため勝則のマスターベーションは一種の戦いだった。煩悩に捉われないでいようとする意志と、全身を走る快感とがしばらくの間拮抗するのだが、やがて思考も肉体もちりぢりとなり、最後は快楽だけが残る。そのたびに彼は、自己嫌悪におちいった。

 このような、ある意味不健全でゆがんだ思想が根付いた勝則の心は、ますます美術への興味を深めた。彼は「美」から受ける感銘を、自分なりに表現したいと切望していった。

 しかし勝則の中で、ひそかに大きく膨れ出した意志とは裏腹に、啓一の支配下に置かれていた彼の体は、当然ながら、皮肉なことに、父の理想へと突き進んだ。中学三年で、啓一の身長の百八十三センチを越え、高校三年で百九十センチとなり、ようやく止まった。太く広い骨格に筋肉が貼り付き、体重は百キロを越えた。体が仕上がっていくのと比例して、彼の柔道の上達は目を見張るものがあった。数々の大会で優勝し、高校三年のインターハイで準優勝した。微妙な判定での準優勝だった。しかしその闘志は、あくまで『父の支配』という名の劇場で演じているにすぎない。おそらく、このときはすでに、勝則は父の力量を超えていただろう。・・・・・・にもかかわらず、父を前にした彼の心は、相変わらず萎え続けた。

 インターハイで準優勝してからというもの、勝則の苦悩はさらに深くなった。親子の間だけで展開されてきたことが、学校も介入する事態へと変わったのだ。しきりに体育大学の名称や、彼に期待をかける言葉が出始めたのだ。そのため、彼はますます自分の意志を表すのが困難な状況へとおちいった。そんな勝則の葛藤を、ただ一人気付いている人物がいた。母の信子である。

 ある日信子は、息子がこもる部屋のドアをノックした。

「勝則、入るわよ」
「ちょっと待ってて!」

 勝則の部屋から、がたがたと物音が聞こえる。あわてる様子がうかがえた。

「母さんなんか用?」

 何事もないかのように、彼は笑顔で信子と顔を合わせた。彼女は、息子のこの笑顔の裏側を知っていた。戸口にたたずむ息子を振り切るようにして、彼女は部屋へと入っていった。まっすぐベッドへと向かう。勝則に緊張が走った。

いつの時代も、男の子の秘密の隠し場所は、ベッドの下と決まっている。白日の下にさらされ、勝則を狼狽させたものは、ワイセツな本やビデオという類のものではなく、多くのスケッチブックの束だった。信子は、無言でうつむく息子のそばで、スケッチブックをぺらぺらとめくり、中を眺めた。彼女は、こんなものを隠すに至った息子を不憫に思った。

「勝則は、昔から絵を描くことが本当に好きだったわよね。柔道じゃなくて、美術の方へ進んでもいいのよ」

 信子のこの言葉は、勝則の心を溶かした。自分の理解者がいる。味方がいる。それは、彼に自分の意志を貫く勇気を与えた。

                      ****

 頭に血がのぼりきった啓一は顔を赤くし、まさに鬼の形相だった。両肩を尖らせ、仁王立ちし、息子を見下ろしていた。啓一の視線の先に、勝則の目があった。かしこまるように、正座する勝則の姿勢は従来のものである。しかし彼の目は、今回ばかりは違った。強い意志を通わせたまなざしを、父に向けていた。

「お前!今なんと言った!」
「僕は美大で、美術を勉強したいんです」
「そんなもんで飯が食えるか!俺が、どれだけ苦労してお前を育てたと思ってるんだ!」
「それでも僕は、美大に行きたいんです!」
「うるさい!黙れ!」

 勝則の頬に、父の手のひらが食い込んだ。幼少期より恐れてきた、父の大きな手のひらである。しかし、勝則の体はもうぶれなかった。彼のそばで、彼と同じ姿勢を取っていた信子が、勝則をかばうように体を前に乗り出した。

「あなた!私からもお願い!もう勝則を自由にしてあげて!」
「ええいうるさい!お前はだまっとれ!」

 啓一は信子をぶった。彼女の体は勝則の前に倒れこんだ。その母の姿を目の当たりにした勝則は、バネ仕掛けのように跳ね上がった。

「母さんは関係ないだろう!」

 彼が啓一に反抗したのは、これが初めてだった。恐怖の存在以外、何者でもない父の唯一尊敬できる一面は、決して母と姉たちには手を上げないことだった。勝則の中の父への敬意は弾け、大きな男と、それをさらに上回る大きな男が向き合い、にらみ合う形となった。

「母さんに謝れ!」
「何だと!?お前誰に向かって口を聞いてるんだ!」
「うるさい!母さんに謝れ!」

 二人はにらみ合った。啓一は、獣のようにギラギラと光る歯をむきだして息子を見上げた。勝則の方がだいぶ背が高い。しかし啓一は、勝則に負ける気など、少しもなかった。

 啓一は、勝則の顔をめがけてこぶしを振り上げた。それを勝則は片手でがっちりとつかみ、もう一方の手で、暴れる父の動きを封じ込めようとした。二人はしばらく揉みあった。勝則は、こんなことをするつもりはなかった。まったくなかったのだが、彼の体は勝手に動いた。啓一の襟ぐりをぎゅっとつかみ取ると、彼の左足を自分の右足で払った。

 ふいに、啓一の視界は回転した。そのとき、天井に吊り下げられた電気のかさに彼の足がぶつかり、がこんと鈍い音がした。啓一の視界は一回転し、止まった。電気のかさが、がらんがらんと音を立てて揺れているのが、どこか遠い場所での出来事のように、わずかに啓一の視界に入った。

                      ****

 その年の春、勝則は東京にある美大の洋画科に合格した。合格通知を受け取った日、すでに家を出ている姉たちも交えての、ささやかな食事会をした。しかし、そこに啓一の姿はなかった。四ヶ月前、勝則が啓一を投げ飛ばしてからというもの、啓一は人が変わったようにおとなしくなっていた。親子は、ほとんど言葉を交わすことがなくなった。勝則は、ようやく自由への切符を手に入れたものの、一回り小さくなったように感じられる父の背中を見ると、本当にこれでよかったのかという後ろめたさにさいなまれた。

 食事会を終え、姉たちは帰っていった。勝則は自分の部屋に戻ると、スケッチブックに書き溜めたものを眺め、自分の進路を思い描き、胸を躍らせていた。本棚の一番広いスペースには、スケッチブックの束が、堂々と陣取っている。

 そのとき、ドアをノックする音がした。

「はい、どうぞ」

 母だと予想し、彼は気楽に言った。

「父さんだ・・・・・・」

 ドアを隔てて、くぐもった太い声が返ってきた。勝則に緊張が走る。

「ちょっと待ってて・・・・・・!」

 勝則は無意識に、すべてのスケッチブックを棚から出し、それらをベッドの下に押し込んだ。

「父さんどうしたの?」

 ドアの隔たりが消え、彼は啓一と向かい合った。勝則は、不自然な引きつった笑みを浮かべていた。啓一はやはり、急に老け込んで見え、勝則の胸を苦しくさせた。

「これをお前に。合格祝いだ」

啓一はそっぽを向き、気恥ずかしそうに、背中に隠していたものを勝則に差し出した。包装紙にくるまれた、長方形の品である。勝則は、それが十二色入りの水彩絵の具であると、瞬時に察した。同時に父が、画材店で無器用に商品を選ぶ姿を想像した。たちまち勝則の心は温かさで満たされ、涙があふれた。

「父さん、ありがとう・・・・・・」

 勝則は、嗚咽と共に、やっとのことで言葉を口にした。

「男のくせに、女みたいに泣いてんじゃねえよ。お前をそんな男に育てた覚えはねえよ」

 ぶっきらぼうな口調だが、啓一の口元は笑っていた。そして彼はこう付け加えた。

「自分で決めた道なんだからがんばれよ。母さんが寂しがるから、たまには帰って来るんだぞ」

 勝則は、しばらく涙が止まらなかった。


 
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