マドンナブルー
<財布の中に、バイト代の五万円が入ってたはずだ。どんな店でも大丈夫だ>

 勝則は宙を歩くような、そのくせ身構えるような、手がかりのつけにくい高揚に包まれて、由利子と共に書店を出た。二人は、日没直後のあやめ色に染まった通りを歩いた。

「鬼ヶ原さん。何が食べたいですか?」

 勝則の隣でそろそろと歩く由利子の顔に、彼は視線を向けた。

「さっき安藤さんが話していたお店でいいですよ」

 まいったな・・・・・・。彼はそう思った。しかし、些細な嘘をついたところで由利子に見透かされるだろう。ここは誠実にいくべきだ。

「実は、そんな店知らないんです。あなたを誘う口実でした。嘘をついてすみません」

 由利子は前を向いたまま、ふふふっと小さく笑った。彼女の横顔がきれいだと、勝則はひそかに見とれていた。

「そんなことだろうと思いました。それでは、私の知ってるお店に行きましょう」

 由利子の案内した店は、小汚いラーメン屋だった。店名が書かれた赤いのれんは、所々擦り切れ、昭和の雰囲気が漂っていた。

 二人はこぢんまりとした座敷に座った。他にカウンター席が五つ、テーブル席が二つあり、一組の家族連れと、二人の中年男性がカウンターの両端を陣取っていた。

 勝則は、店主に聞かれないよう、こそこそと声をひそめ、

「この店で本当にいいんですか?僕バイト代が出たばかりなんです。もっと素敵な店で、あなたにご馳走したかったのですが・・・・・・」
「あら、ここすごくおいしいんですよ。ラーメンよりも、餃子とレバニラが特においしいの。レバーは大丈夫ですか?」
「はい。僕は何でも食べます」

 無意識に、彼は言葉に力がこもった。注文は由利子にまかせた。彼女はこなれた素振りで料理を次々注文し、瓶ビールとグラスを二つ頼んだ。勝則はつい最近、二十歳になったばかりである。堂々と飲酒できる年齢になったものの、めったに口にしない酒である。由利子の前で醜態をさらさないよう気を付けなければと肝に銘じ、彼女がついでくれたビールを一口飲んだ。

 由利子が言ったとおり、料理はとてもおいしかった。彼女は勝則の二歳年上の二十二歳で、レストランで働いて生計を立てているという。二本目のビールに手が伸び、ほどよく酔いが回り始めたころ、勝則はずっと気になっていた事柄を彼女に質問した。

「鬼ヶ原さんは、どうして偽名なんて使ってたんですか?」

 由利子の頬は、酔いで薄桃色に染まっていた。目じりがとろんと下がり、色っぽかった。

「私、美術モデルの事務所に登録してて、色々なところで美術モデルをしているの。愛好会や、プロの画家からの依頼もあるの。長い時間、同じ姿勢でいるのはつらいけど、時給がいいのよね。四年前にある愛好会でモデルをしたとき、自己紹介をしてくれと言われて、私ったら馬鹿正直に本名と勤め先を言ってしまったの。そしたら、そこにいた一人にストーキングされて大変だったのよ。おかげで職場を変え、引越しまでするはめになったわ。それ以来、偽名を使うようになったわけ」
「ああ、あなたは綺麗だから」

 勝則は、自分でも驚くほどすんなりと、その言葉を口にした。すると由利子は、急に不機嫌となる。

「それはどうも。でもお世辞は結構よ」
「お世辞ではありません。本当に綺麗です」

 彼はあわてて言った。自分の失態に思い当たらない彼は、由利子の豹変に戸惑った。

「それじゃあ私もあなたに質問よ。ずばり、あなたはゲイね?」
「はい・・・・・・?」

 やぶからぼうに言われ、面食らった。

「きっとそうよ。そうとしか思えないわ」
「あのう、なぜ僕がゲイだと思うのですか?」
「私があなたの大学でモデルをしたとき、あなたは私の体を見ても、なんとも感じてなかったじゃない。他の男の子たちは、皆私と寝たそうにしてたわ。私の体を見て、平静心でいたのはあなただけよ。とても悔しかったわ」

 勝則は、由利子のことが分からなくなった。彼女が自分を覚えていた理由に突き当たり、彼女に対し、淡い恋心に似た感情を抱き始めていた自分自身を恨んだ。

 彼は、グラスに三分の二ほど残ったビールを一気に飲み干すと、乱暴にテーブルに置いた。乾いた音が響く。

「つまり鬼ヶ原さん、あなたは男子生徒があなたの体を見て、平静心を失う姿を見るのが楽しいということですか?僕はそうでなかったから不愉快だった。そういうことですか?ふざけないでください!僕たちは真剣に芸術に取り組んでいるんです。そんな不埒な考えを持ち込んで、モデルをしないでいただきたい!」

 酒の力を借り、勝則は声を荒上げた。しかし、それは由利子への怒りというよりも、自分の愚鈍さに腹を立てていた。しゅんとうつむいた由利子を見て、彼は後悔した。

「すみません。言い過ぎました・・・・・・」

 すると由利子は、うつむいた顔を勝則に向けた。

「あなたの言うとおりだわ。私は男性の気持ちをかき乱してやることで、男性の優位に立った気がしてた。そうすることで、父に復讐したつもりになってた・・・・・・」

 由利子の話によると、彼女の父親は男尊女卑の思考が強く、事あるごとに、母親を「女のくせに!」と罵倒したそうだ。

「そんな考えおかしいと思わない?女の方がえらいに決まってるのに。男なんて腕っ節が強いだけじゃない。いったい誰の体から産まれたと思ってるのかしら。男は射精して気持ちいい思いをするだけじゃない」

 由利子は急に饒舌になった。

「僕も同感です。女性は神秘的で、綺麗で、尊敬に値します」
「でしょう?私が十歳のとき、父は女を作って家を出たっきり会ったことがないんだけど、とても不幸な人生を送ってることを願ってるわ」
「では、あなたはお母さんと二人で住んでるんですか?」
「母は、五年前に病気で亡くなったの。父が出て行った後、再婚もしないで働きづめで、美人だった面影がなくなるほどシワシワな顔になって、あげくにあっさり死んじゃったの。母の人生って、何だったのかなぁと思う。ただ苦しむためだけに産まれてきたように思えるわ・・・・・・」

 そのときの由利子の顔は、勝則の大学で見せた、憂いに満ちたものだった。彼女が男性へ向ける嫌悪は、母親にひどい仕打ちをした父親への憎悪からくるものだと知り、勝則は、由利子を抱きしめたい強い衝動に駆られた。

 二人は、三本目のビールを飲み終えたところで店を後にした。会計はとても安く済んだ。由利子は、勝則ににこっとほほ笑みを向け、

「とてもおいしかったわ。ありがとう」

 と言った。大学生の勝則でも女性に食事をご馳走でき、いい格好できる場所として、由利子があえて、このぼろいラーメン屋を選んだことは明白だった。そんな由利子が、勝則にとっていとおしい存在となっていた。彼の中に沸きあがった、初めての感情である。

 店を出ると、あたりは夜に覆われていた。勝則は、由利子を彼女のアパートに送り届けた。彼らの住まいは比較的近かった。薄茶色に塗られたペンキは色あせ、由利子のアパートは、勝則の住まいと同じくらい古かった。

「コーヒーでも飲んでいかない?」

 さび付いた階段を半分ほどのぼったところで、由利子は、自分を見守るように地面にたたずむ勝則のほうへ振り返った。普段の彼だったら即刻NO!と答えるところである。しかし、その日の彼は違った。飲酒により、いくぶん開放的な気分であったが、それよりも、何よりも、勝則は由利子と離れたくなかった。

 黒い長方形の囲いの中を、勝則は由利子に導かれるように吸い込まれていった。ふいに目がくらみ、彼は目を閉じた。由利子は無数のビーズで装飾された、照明のスイッチを押していた。それにより、巣窟のように思えた空間の様子が、オレンジ色の光の中に浮かび上がった。

 由利子の部屋は、無骨で朽ちた外観からは想像もつかないほど、いかにも女の子の部屋といった感じで、赤やピンクなどのかわいらしい色彩が、勝則の目に飛び込んだ。同時に、花のような甘い香りが彼の嗅覚をくすぐる。

 無数のビーズを通り抜けたライトの光が、あたり一面に乱反射している。小さく白い、星のような光の粒が、勝則の視界をしきりに飛び交った。その光の中、由利子は無言で服を脱ぎ始めた。勝則は部屋の入り口で立ち止まったまま、由利子を見つめていた。

 由利子は最後の一枚の衣服を取り去ると、半年前、勝則が形状を知り尽くした彼女の体がそこにあった。鼻腔に絡みつく甘い香り・・・・・・。無数のガラス玉を通り抜けた、柔らかな光・・・・・・。官能めいたそれらの事柄に、扇情されたというわけではなかった。ただこれが自然のことに思え、勝則は裸の由利子と向かい合った。

 由利子は両手を上げ、金縛りにあったように動かない勝則の顔を包み込んだ。そして自分のほうへ引き寄せ、唇を重ねた。彼女は勝則の唇の隙間から、媚薬を流し込むように舌を差し入れた。冬眠しているように動かない彼の舌の上を、ちろちろと柔らかな由利子の舌が這う。

 二人の唇が離れた。由利子は勝則を見つめ、

「あなたをかき乱したいの」

 そうささやき、勝則の手を取り、自分の体へ導いた。

 由利子の体は、温かくやわらかかった。少し湿った彼女の皮膚は、容易に勝則の手のひらに吸い付いてきた。それらの感触は、即座に彼の大脳皮質へと伝えられ、これが初仕事なのだと急き込むように、たちまち勝則を男に変えた。

 彼が長年固執してきた女性像は、もろく崩れ去った。女性は神秘的でも絶対美でもなかった。ただ彼の体の下で快楽におぼれる、弱い人間にすぎなかった。そして自分自身もまた、弱い人間の一人なのだと悟った。

 
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