マドンナブルー
「妻と娘が死んだんだ。僕が、二人を死なせたんだ・・・・・・」

 深夜の網地島の砂浜に、安藤勝則と吉岡咲羅は、並んで座っていた。突然の安藤の告白は、熱した油に水を注いだように、咲羅を激しく弾いた。彼は、黒い海洋を見つめたまま言葉を続ける。

「妻は、とても綺麗だった。大学のデッサンモデルとしてやってきた彼女は、神々しいほど綺麗だった・・・・・・」

 安藤は咲羅に聞かせるというよりも、独り言のようにつぶやいた。咲羅は、以前美術準備室で見た、安藤の恋人と思しき絵の女性を思い出した。あの絵の女性が安藤の妻なのだと確信した。彼は、独り言のような言葉を続ける。

「僕と結婚したことが間違いだったんだ。そもそも僕と出会うべきではなかった。そうしたら今ごろ、たぶん誰かと結婚して、幸せになってたはずだ・・・・・・。そうしたら仙台の海辺のアパートに住むことはなかっただろうし、津波に飲まれることもなかった・・・・・・。由利子は、今でも生きてたはずだ・・・・・・!」

 由利子・・・・・・。つねに、咲羅の中の安藤の像に寄り添っていた女性に、固有名詞がついた。漠然としていたものが、確かな形となり、咲羅の心に生々しい痛みを残した。

 安藤の目から、こらえていた涙が溢れ出した。両手で顔を覆い、悲痛な胸中を嗚咽と共に絞り出した。

「娘なんて、まだたったの二歳だったんだ・・・・・・!」

 彼は両脚を抱え込み、顔をひざの上に突っ伏した。嗚咽にあわせて背が震える。殴られたような衝撃と困惑が、ぐるぐると咲羅の頭の中を回っていた。

 放心状態の咲羅の目前に、突然、鉛色の世界が広がった。彼女は中学二年生になっている。背後に迫る津波から逃れようと、高台目指して走っていた。

 やがて、彼女は安全地帯に入り込んだ。しかし安堵したのはつかの間のことだった。彼女の背後に、幼女を抱いた女性が流れ着いたのだ。二人は親子のようである。

 咲羅は、正義と利己の間で揺れた。その親子のいる場所は危険そうだった。いつ濁流が押し寄せるかも分からなかった。しかし、やはり見殺しにするわけにはいかない!

<助けに行かなくちゃ!>

 咲羅がそう奮起したとき、母親の顔にぎくりとした。母親の顔は、安藤のデッサンの女性、彼の妻の、由利子の顔だった。

 咲羅の目がそれを認めた瞬間、襲いかかった波が、親子を飲み込んだ。

 咲羅は悲鳴を上げた。甲高い金切り声は、静寂の海岸に響き渡り、安藤を哀切の中から引き戻した。

「吉岡!いったいどうしたんだ!」

 現実と非現実のはざ間に意識のある咲羅は、パニックにおちいり、ヒステリックに泣き叫んだ。

「吉岡!おい吉岡!しっかりしろ!」

 安藤は、咲羅の小さな両肩を激しく揺さぶった。やがて彼女の目に、ぼんやりと安藤の姿が映った。彼の顔は、狼狽から安堵へと変わっていった。しかし彼女が安藤を認識したことにより、彼女の恐慌は、さらに深くなった。

「先生ごめんなさい!ごめんなさい!私、先生の奥さんと子供を助けられたかもしれないのに、怖くて助けに行かなかった。本当に本当にごめんなさい!」
「吉岡、いったい何の話をしてるんだ」

 わけのわからないことを言い、泣き叫ぶ生徒を前に、安藤はふたたび狼狽した。

 やがて、徐々に落ち着き始めた咲羅は、ぽつぽつと子細を語り始めた。震災の日、津波から命からがら逃げきったこと。親子が自分のそばに流れついたこと。利己が働き、すぐに助けにいかなかったこと。渋っているさなか、濁流が親子を襲い、飲み込んだこと。その母親の顔が、安藤のデッサンの女性だったこと・・・・・・。

 現実世界に意識を戻した咲羅の記憶は、彼女が出会った母親が安藤の妻だということに、いくつかの疑問を投げかけた。しかし咲羅は、確かに安藤の妻だったのだと信じ込んだ。謝罪する対象を捜し求めていた彼女の心理がそうさせた。

 一部始終を聞き終えた安藤は、考える目で、地平線を見つめていた。隣の咲羅は、両手で顔を覆い、しゃくりあげていた。

 ふいに安藤は、咲羅のほうへ向き直った。

「君が見た親子は、僕の妻と娘ではないよ」

 咲羅は、泣き濡れた顔で安藤を見た。彼の表情は優しかった。咲羅のよく知る安藤だった。

「同じような境遇で亡くなった親子が、数え切れないくらいいるだろう。あれだけ大勢の人が犠牲になったのだから。君は僕の妻子の話を聞いたから、たまたま同じように亡くなったその親子を、僕の妻子と思い込んでるだけなんだよ。それと、君が間違ったことをしたとは、僕は思わないよ。あんな津波に襲われたら、誰だって怖くて腰が抜けるにきまってる。助けに行ったところで、君も一緒に犠牲になってたかもしれない。その親子は気の毒だけど、仕方のないことだったんだよ」

 話し終えると、安藤は長い腕を伸ばし、咲羅を抱きすくめた。

「つらかっただろう。君は、そんな苦しみを抱えてきたんだね。君はちっとも悪くない。あれは、仕方のないことだったんだよ」

 彼は、一語一語に想いをこめた。この言葉は咲羅を慰めるのと同時に、彼は、自分の胸にも訴えていた。

 咲羅は彼のぬくもりに、わずかな記憶の父を感じた。

 あたりはすでに薄明るくなり、朝もやが立ちこめていた。
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