マドンナブルー
咲羅は、薄暗い自分の部屋で、ベッドの上に無気力に寝転んでいた。
網地島での合宿を終えて、十日ほどたつ。その間、バイトに精を出し、宿題の山をがむしゃらに片付けた。今日、バイトが休みであるのがつらかった。こんなにも多忙を欲したのは初めてだ。
そのとき、携帯の着信音が響いた。咲羅は飛び起き、期待を込めて発信元を確認した。期待通り美奈子からである。
咲羅が電話に出ると、電話口から騒々しい気配が伝わってきた。それが、彼女をいくぶん明るい気持ちにさせた。
「咲羅、今日バイト休みよね。今カラオケに来てるから、咲羅もおいでよ。梅田君に杜に、一年の子たちも来てるのよ」
電話口からは、カラオケの音と、それに負けじと大声で話す美奈子の声が飛んできた。にぎやかさに身を置くのを切望し、咲羅はいそいそと準備をして家を出た。
****
咲羅がカラオケボックスのドアを開けると、にぎやかな気配と共に、なじみの顔がそろっていた。彼女はほっとするような懐かしさを覚えた。
「おっ、やっと来た」
と梅田が言った。
「咲羅ぁ、遅いよぉ」
美奈子は甘えた声で言った。梅田の隣のシートが空いており、咲羅はそこに座った。ちょうど杜が歌っていた。やかましいハードロックを、大げさに体をくねらせた振り付けを交えて歌う彼は、一同を笑いの渦に巻き込んでいた。曲が終盤を迎えたとき、杜は美奈子を指差し、「愛してるぜベイベー!」とアーティスト気取りで叫んだ。美奈子は顔を真っ赤にし、
「うざい!きもい!やめて!」
と杜に言い放った。意気消沈した杜は、大げさにうなだれ、さらに大きな笑いを誘った。
「吉岡は、飲み物何にする?」
梅田が、笑っている咲羅にメニュー表を手渡した。彼女はそれに目を落とし、
「じゃあ、メロンソーダ」
と言った。梅田はタッチパネルですばやく注文した。
「急いできたの?顔、汗かいてる」
梅田は咲羅におしぼりを差し出した。事実、咲羅は自転車を飛ばしてきたのだ。彼女は遠慮がちにおしぼりを受け取り、額の汗を拭った。ひんやりと心地よかった。ふと、梅田の視線がいつまでも自分の顔に留まっているのに気付き、おもわず身をすくめた。女性なら、誰しも同じ反応を示すのではないかと思うほど、梅田はハンサムだった。彼に見つめられ、咲羅は、傷口を絆創膏で保護したような気分となった。
次の曲は梅田で、サザンの『真夏の果実』だった。咲羅はその曲を知らなかったが、梅田の口から流れる甘いバラードは、女子全員をうっとりさせた。
「梅田君て、すごく歌うまいんだね。それにさっきの曲、すごく素敵」
咲羅は歌い終えた梅田に言った。彼は「そうかな」と、少し照れた表情となり、
「サザンが好きなんだ。特に九十年代のころの曲がいい」
「へえ。そんな昔から歌手だったんだ」
「名曲がたくさんあるんだ。興味あるなら今度アルバム貸すよ」
「本当?嬉しい」
そこへ、二人の会話に薄笑いを浮かべた杜が、割って入ってきた。彼は二人をからかうように、「本当?嬉しい」と裏声を使って咲羅の口まねをした。
「何よ杜」
「お前らいい感じだぜ。付き合っちまえ」
「バカ!突然何言い出すのよ!」
咲羅は、あもわず大げさにあわててしまった。その様子に、さらに杜は彼女をからかうように笑った。
動揺が抜けないまま、咲羅は梅田を盗み見た。そこには彼の、整った涼やかな横顔があるのみで、感情まで読み取れない。咲羅は無意識に、彼の心中を探っていた。それは、傷をなめる行為と似ていた。
「一緒に抜け出さないか?」
声をひそめ、耳元で梅田にそうささやかれたとき、咲羅の心がとろけかかったのは確かだった。彼女はあたりを見回した。ふたたび杜がマイクをにぎっている。彼は、女性歌手の歌を裏声を駆使し、体をしならせて歌っている。狭い室内に笑いがあふれている。咲羅と梅田の二人が消えたところで、誰も気に留めないだろうと判断し、二人は夜の街へ出た。
****
「吉岡を連れて行きたいところがあるんだ」
梅田はそう言ったきり、帰宅ラッシュの行き交う人々の群を縫って、大またで歩き続けた。彼の足は、駅前のタワービルの前でようやく止まった。
「私を連れてきたかった場所ってここ?」
梅田は咲羅の質問に答えず、彼女をエレベーターの中に押し込めた。そして迷わず最上階のボタンを押した。エレベーターが上昇を始めた。途中止まることなく、目的の階でドアが開いた。
「わあ・・・・・・!」
咲羅はおもわず歓声を上げた。天空にポンと体を投げ出されたような感覚だった。二十畳ほどのフロアの四方の壁は、ガラスである。彼女はまばゆい夜景のど真ん中にいた。
「すごいきれい!駅前にこんな場所があったなんて。私の家も見えるかな」
目を輝かせてはしゃぐ咲羅の姿に、梅田は満足げに笑った。
「喜んでくれてよかった。ここ、タダなんだぜ。最近吉岡が元気ないって、高木が言ってたから」
彼はベンチに腰掛けた。咲羅もつられて彼の隣に座った。彼らのほか、四組の男女が非日常的な空間で静かな時間を過ごしている。
「美奈子が・・・・・・」
咲羅はじーんと心が温かくなった。
「それじゃあ、今日のカラオケも美奈子が?」
「うん。高木が皆に声かけたんだ。最近吉岡が元気ないから、盛り上げて元気付けようって」
美奈子からの急な誘い。おどけた杜の振る舞い。梅田に案内されて、今、自分が非日常的な場所にいること・・・・・・。それらがさざ波のように咲羅の心に打ち寄せ、目頭を熱くさせた。
「私、よい友達を持って幸せだな・・・・・・」
「最近何かあった?」
咲羅の心に安藤が浮かび上がり、きゅんと切なくなった。
「私、最近失恋したんだ。すごく好きだったんだけど、その人には想ってる人がいるってわかったの。その人すごく私に優しかったから、何か勘違いしちゃってた。ひょっとしたら、その人も私のことを、なんて・・・・・・」
「それって俺も知ってる人?」
さすがにそれは言えない。咲羅は笑ってごまかした。彼は「ふーん」とそっけなく言い、会話が途切れた。咲羅は泣きたいのをこらえるように、きらきらと輝く夜景に目を置き続けた。
ふいに、梅田は咲羅のほうに向き直った。
「俺と付き合ってくれない?」
軽い調子で言う彼に、咲羅はからかわれているような気がした。
「こんなときに冗談やめてよ」
「冗談なんかじゃないよ」
今度の梅田の言葉には重みがあった。咲羅は彼の顔を見た。彼は緊張した表情を崩し、照れ臭そうに笑った。
「冗談じゃないんだ。本当に俺と付き合ってほしい」
「だって、私失恋したって今話したばかりじゃない。急に付き合ってほしいなんて困る・・・・・・」
「別に、今すぐ俺のこと好きになれって言ってるわけじゃないよ。少しずつ好きになってくれればいい」
「でも・・・・・・」
咲羅が返答に困っていると、梅田はすっと立ち上がった。彼は咲羅と向かい合うと、息を大きく吸い込んだ。
「吉岡咲羅さん、一年のときから好きでした。お願いだから、俺の彼女になってください」
あまりに大声だったため、フロアにいる人々の注目を集めた。咲羅は恥ずかしくて、彼を止めようとした。
「お願いします。俺と付き合ってください」
「梅田君、恥ずかしいからやめて!皆こっち見てる・・・・・・!」
「お願いします。俺と付き合ってください」
「もうやめてってば・・・・・・!」
「お願いします。好きです。俺と付き合ってください」
「分かった、分かったから、付き合うから、もうやめて・・・・・・!」
おもわず口からそうすべり出た。しかし、咲羅に後悔はなかった。彼女に向けられた梅田の顔に、心の底からの喜びがあふれていたからだ。彼は急き込むように咲羅を抱きしめた。
突然、拍手が沸いた。若い男女の恋の行方に、固唾を呑んで見ていた居合わせた人々が、拍手で祝福してくれたのだ。
梅田の腕の中は、温かく、快かった。さわやかで、日向のにおいがした。咲羅は祝福の拍手の中で、自分は正しい選択をしたのだという気持ちになった。
網地島での合宿を終えて、十日ほどたつ。その間、バイトに精を出し、宿題の山をがむしゃらに片付けた。今日、バイトが休みであるのがつらかった。こんなにも多忙を欲したのは初めてだ。
そのとき、携帯の着信音が響いた。咲羅は飛び起き、期待を込めて発信元を確認した。期待通り美奈子からである。
咲羅が電話に出ると、電話口から騒々しい気配が伝わってきた。それが、彼女をいくぶん明るい気持ちにさせた。
「咲羅、今日バイト休みよね。今カラオケに来てるから、咲羅もおいでよ。梅田君に杜に、一年の子たちも来てるのよ」
電話口からは、カラオケの音と、それに負けじと大声で話す美奈子の声が飛んできた。にぎやかさに身を置くのを切望し、咲羅はいそいそと準備をして家を出た。
****
咲羅がカラオケボックスのドアを開けると、にぎやかな気配と共に、なじみの顔がそろっていた。彼女はほっとするような懐かしさを覚えた。
「おっ、やっと来た」
と梅田が言った。
「咲羅ぁ、遅いよぉ」
美奈子は甘えた声で言った。梅田の隣のシートが空いており、咲羅はそこに座った。ちょうど杜が歌っていた。やかましいハードロックを、大げさに体をくねらせた振り付けを交えて歌う彼は、一同を笑いの渦に巻き込んでいた。曲が終盤を迎えたとき、杜は美奈子を指差し、「愛してるぜベイベー!」とアーティスト気取りで叫んだ。美奈子は顔を真っ赤にし、
「うざい!きもい!やめて!」
と杜に言い放った。意気消沈した杜は、大げさにうなだれ、さらに大きな笑いを誘った。
「吉岡は、飲み物何にする?」
梅田が、笑っている咲羅にメニュー表を手渡した。彼女はそれに目を落とし、
「じゃあ、メロンソーダ」
と言った。梅田はタッチパネルですばやく注文した。
「急いできたの?顔、汗かいてる」
梅田は咲羅におしぼりを差し出した。事実、咲羅は自転車を飛ばしてきたのだ。彼女は遠慮がちにおしぼりを受け取り、額の汗を拭った。ひんやりと心地よかった。ふと、梅田の視線がいつまでも自分の顔に留まっているのに気付き、おもわず身をすくめた。女性なら、誰しも同じ反応を示すのではないかと思うほど、梅田はハンサムだった。彼に見つめられ、咲羅は、傷口を絆創膏で保護したような気分となった。
次の曲は梅田で、サザンの『真夏の果実』だった。咲羅はその曲を知らなかったが、梅田の口から流れる甘いバラードは、女子全員をうっとりさせた。
「梅田君て、すごく歌うまいんだね。それにさっきの曲、すごく素敵」
咲羅は歌い終えた梅田に言った。彼は「そうかな」と、少し照れた表情となり、
「サザンが好きなんだ。特に九十年代のころの曲がいい」
「へえ。そんな昔から歌手だったんだ」
「名曲がたくさんあるんだ。興味あるなら今度アルバム貸すよ」
「本当?嬉しい」
そこへ、二人の会話に薄笑いを浮かべた杜が、割って入ってきた。彼は二人をからかうように、「本当?嬉しい」と裏声を使って咲羅の口まねをした。
「何よ杜」
「お前らいい感じだぜ。付き合っちまえ」
「バカ!突然何言い出すのよ!」
咲羅は、あもわず大げさにあわててしまった。その様子に、さらに杜は彼女をからかうように笑った。
動揺が抜けないまま、咲羅は梅田を盗み見た。そこには彼の、整った涼やかな横顔があるのみで、感情まで読み取れない。咲羅は無意識に、彼の心中を探っていた。それは、傷をなめる行為と似ていた。
「一緒に抜け出さないか?」
声をひそめ、耳元で梅田にそうささやかれたとき、咲羅の心がとろけかかったのは確かだった。彼女はあたりを見回した。ふたたび杜がマイクをにぎっている。彼は、女性歌手の歌を裏声を駆使し、体をしならせて歌っている。狭い室内に笑いがあふれている。咲羅と梅田の二人が消えたところで、誰も気に留めないだろうと判断し、二人は夜の街へ出た。
****
「吉岡を連れて行きたいところがあるんだ」
梅田はそう言ったきり、帰宅ラッシュの行き交う人々の群を縫って、大またで歩き続けた。彼の足は、駅前のタワービルの前でようやく止まった。
「私を連れてきたかった場所ってここ?」
梅田は咲羅の質問に答えず、彼女をエレベーターの中に押し込めた。そして迷わず最上階のボタンを押した。エレベーターが上昇を始めた。途中止まることなく、目的の階でドアが開いた。
「わあ・・・・・・!」
咲羅はおもわず歓声を上げた。天空にポンと体を投げ出されたような感覚だった。二十畳ほどのフロアの四方の壁は、ガラスである。彼女はまばゆい夜景のど真ん中にいた。
「すごいきれい!駅前にこんな場所があったなんて。私の家も見えるかな」
目を輝かせてはしゃぐ咲羅の姿に、梅田は満足げに笑った。
「喜んでくれてよかった。ここ、タダなんだぜ。最近吉岡が元気ないって、高木が言ってたから」
彼はベンチに腰掛けた。咲羅もつられて彼の隣に座った。彼らのほか、四組の男女が非日常的な空間で静かな時間を過ごしている。
「美奈子が・・・・・・」
咲羅はじーんと心が温かくなった。
「それじゃあ、今日のカラオケも美奈子が?」
「うん。高木が皆に声かけたんだ。最近吉岡が元気ないから、盛り上げて元気付けようって」
美奈子からの急な誘い。おどけた杜の振る舞い。梅田に案内されて、今、自分が非日常的な場所にいること・・・・・・。それらがさざ波のように咲羅の心に打ち寄せ、目頭を熱くさせた。
「私、よい友達を持って幸せだな・・・・・・」
「最近何かあった?」
咲羅の心に安藤が浮かび上がり、きゅんと切なくなった。
「私、最近失恋したんだ。すごく好きだったんだけど、その人には想ってる人がいるってわかったの。その人すごく私に優しかったから、何か勘違いしちゃってた。ひょっとしたら、その人も私のことを、なんて・・・・・・」
「それって俺も知ってる人?」
さすがにそれは言えない。咲羅は笑ってごまかした。彼は「ふーん」とそっけなく言い、会話が途切れた。咲羅は泣きたいのをこらえるように、きらきらと輝く夜景に目を置き続けた。
ふいに、梅田は咲羅のほうに向き直った。
「俺と付き合ってくれない?」
軽い調子で言う彼に、咲羅はからかわれているような気がした。
「こんなときに冗談やめてよ」
「冗談なんかじゃないよ」
今度の梅田の言葉には重みがあった。咲羅は彼の顔を見た。彼は緊張した表情を崩し、照れ臭そうに笑った。
「冗談じゃないんだ。本当に俺と付き合ってほしい」
「だって、私失恋したって今話したばかりじゃない。急に付き合ってほしいなんて困る・・・・・・」
「別に、今すぐ俺のこと好きになれって言ってるわけじゃないよ。少しずつ好きになってくれればいい」
「でも・・・・・・」
咲羅が返答に困っていると、梅田はすっと立ち上がった。彼は咲羅と向かい合うと、息を大きく吸い込んだ。
「吉岡咲羅さん、一年のときから好きでした。お願いだから、俺の彼女になってください」
あまりに大声だったため、フロアにいる人々の注目を集めた。咲羅は恥ずかしくて、彼を止めようとした。
「お願いします。俺と付き合ってください」
「梅田君、恥ずかしいからやめて!皆こっち見てる・・・・・・!」
「お願いします。俺と付き合ってください」
「もうやめてってば・・・・・・!」
「お願いします。好きです。俺と付き合ってください」
「分かった、分かったから、付き合うから、もうやめて・・・・・・!」
おもわず口からそうすべり出た。しかし、咲羅に後悔はなかった。彼女に向けられた梅田の顔に、心の底からの喜びがあふれていたからだ。彼は急き込むように咲羅を抱きしめた。
突然、拍手が沸いた。若い男女の恋の行方に、固唾を呑んで見ていた居合わせた人々が、拍手で祝福してくれたのだ。
梅田の腕の中は、温かく、快かった。さわやかで、日向のにおいがした。咲羅は祝福の拍手の中で、自分は正しい選択をしたのだという気持ちになった。