マドンナブルー
 夏休みも終わりに近づいたある日の早朝、咲羅は自宅の台所で弁当を作っていた。から揚げや卵焼きなど、五、六種類こしらえ、丁寧に大きな弁当箱に詰めていた。

 梅田と付き合うようになってからというもの、ほぼ毎日彼と会った。二人の家の中間あたりに図書館がある。いつもそこで待ち合わせた。まず一時間ほど図書館で過ごす。学習席に並んで座り、勉強した。それは梅田の意向で、咲羅はそれに従っている形だった。そのときの梅田の姿勢には、すさまじいものがあった。隣にいる咲羅の存在すら忘れているのではと疑うほど、一心不乱に勉強する。高校の試験の成績で、常に上位に名前を連ねている彼のことを、咲羅は、彼の両親が大学教授と医師という知的な職業に従事しているため、その遺伝子を受け継いだ彼も秀才なのだと、勝手に思い込んでいた。陰でこんな努力をしていたと知り、頭が下がる思いだった。

 勉強を終えると、梅田は申し訳なさそうに笑い、

「腹減ったよな。何か食いに行こう」

 そう促し、二人は図書館を後にする。梅田の家は外食が多いようで、彼は様々な店を知っていた。しかしどの店も、高校生には不似合いな高級店ばかりだ。会計時、咲羅はいつも、

「私バイトしてるんだし、自分の分は自分で払うわよ」

 と言った。しかし、梅田はがんとして応じなかった。

「別に俺が稼いだ金じゃない。だから、俺には何の感謝も遠慮もしないでほしい。ただ、うまそうに食べる吉岡の顔が見たいだけなんだ」

 そう彼は笑顔で話すのだが、言葉の節々に、やさぐれたようなものが、かすかににおった。そのため咲羅は何か割り切れない気持ちとなるのだが、男女交際に不慣れな自分の緊張によって、梅田の態度をゆがんだ形に捉えたにすぎないのだと思い直した。

 今日のデートは咲羅が計画した。

「いつも俺の都合ばかりでごめんな。明日は吉岡の行きたいところにいこう。どこに行きたい?」

 梅田にそう尋ねられ、

「それじゃ、アヒルのボートに乗りたい」

 考えなしに、口から出た。何かの映画で見た、アヒルのボートに乗っているカップルの、むつまじい姿のワンシーンが頭の隅にあったのだ。梅田は意表をつかれた顔をした後、けらけらと笑い出した。愛くるしい女の子でも見るような目で咲羅を見つめ、

「行こう行こう。アヒルのボートに乗りに行こう」

 と笑って言った。

 咲羅が弁当の支度をしていると、パジャマ姿の母の晴江が、芳香に吸い寄せられるように台所に入ってきた。

「おはよう。うーん、いいにおい」

 咲羅はシンクにたまった食器を洗っていた。母のいる背後に首を回し、控えめに「おはよう」と言うと、逃げるように首を元の位置に戻した。自分の背に、母の視線が貼り付いているのを感じた。

「最近、毎日のように出かけてるようじゃない」

 晴江はダイニングテーブルのふちに寄りかかり、指でつまんだ卵焼きを口に放り込んだ。

「うん。まあね」
「彼氏でもできた?」
「うん。まあね」
「ふーん」
「・・・・・・」
「もうセックスはしたの?」

 ほらきた!と咲羅は思った。

「そんなことしないわよ!まだキスだってしたことないのに」
「まだでよかった。咲羅に彼氏ができたら、言おうと思ってたことがあるの。まあ座りなさい」

 咲羅は手の泡を洗い流し、うんざりした気持ちで晴江に従った。

「咲羅、妊娠だけは気をつけるのよ。避妊の仕方は知ってるわね?」

 親子間での性の話題はどこか気持ち悪い。咲羅は返答に困った。

「大事なことなんだから真面目に聞いてね。こんなとき、女ばっかりがつらい思いをするのよ。だから、責任持てない高校生のうちは、本当に妊娠には気をつけるのよ。それを守ってくれれば、好きにセックスして構わないわ。私がするなって言ったって、どうせするんだろうし」

 咲羅は真剣に聞くふりをしていた。晴江の言葉は、心に響かなかった。親子間の性の話題に、嫌気がさしたということもあったが、晴江の話の内容は、自分とはどこか無関係に思えた。確かに梅田という恋人ができた。しかし彼との間に、母が心配する事態が起こるのを、咲羅は想像できないでいた。梅田に対し、異性としての魅力を感じないというわけではない。むしろその逆で、彼は完璧で素敵すぎた。その非の打ち所のなさが、咲羅の中の梅田の像を、非現実的なものにした。彼を、まるで童話の世界の王子様のように感じられた。

                  ****

 晩夏の太陽光線にさらされ、汗ばむ肌を、細かな水しぶきが心地よくなでていく。咲羅と梅田は湖畔にて、彼女の希望通りアヒルのボートに乗っていた。

 咲羅は淡いピンクのTシャツに、白いレース地のロングスカートをはいていた。デートに着ていくようなかわいい服を持っていなかった彼女は、それらの服を、梅田と交際するようになってから買い揃えた。彼女の装いを、梅田は「かわいい」とほめた。風が吹くたび、スカートのすそが揺れる。スカートの中に入り込んだ風が、彼女の内股をなで上げていく。そのたびに咲羅は、照れ臭く、くすぐったい気分となった。

 昼食は、湖畔沿いの芝生の上に、レジャーシートをしいて食べた」

「これ全部吉岡が作ったの?すごいね。料理得意なんだ」

 梅田は、シートの上に広げられた咲羅が作った弁当を見て、感激したようだった。

「うちは母子家庭でママが忙しいから、自然とできるようになっただけよ。でも味はどうかな・・・・・・」

 梅田はおいしいと何度も言いながら、三人分はあったであろう、大きな弁当のほとんどを一人で平らげた。この日の朝、豪華なものを作ろうと勢い込んだ咲羅は、たった二人分の食事だということを忘れ、所狭しと食べ物を詰め込んでいたのだ。

「家庭的な料理を食べたのは久しぶりだよ。料理うまいんだね」

 梅田は満足そうに言ったが、彼の異様なまでに膨れた下腹部から、いくらか無理をしたのがうかがえた。そんな彼の気遣いが、申し訳ないような、くすぐったいような、嬉しいような、そんな気持ちに咲羅をさせた。

「なんか恥ずかしいな。梅田君、いつもおいしい物ばかり食べてそうだから・・・・・・」

 咲羅は、空になった弁当箱をそそくさと片付けながら言った。

「そんなことないよ。ホッとする味で、家庭料理が一番だよ。うちは外食が多いから、手料理ってすごく特別な感じがするんだよね」

 梅田は屈託のない様子だが、彼が、少しかわいそうに思えた。そのため咲羅は言葉に詰まった。そんな彼女に、梅田は愛らしい女の子を見るようなまなざしを向ける。彼は、よくこの優しい目をする。

「吉岡のお母さんてどんな人?」
「うちのママ?ママは、私が小さいときにパパが死んでから、ずっと働きづめで私を育ててくれたの。だからママにはすごく感謝してる。本当は再婚して幸せになってほしいんだけど、パパが忘れられないんだって」
「そうなんだ。吉岡のお父さん、よほど素敵な人だったんだね」
「そうみたい。でも私、小さすぎてパパの記憶がほとんどないの」
「そうなんだ・・・・・・」

 そう相槌を打ち、会話が途切れた。彼らの頭上に、大きなかえでの木が、羽を伸ばすように枝を広げている。咲羅は梅田を見た。彼の顔は、木漏れ日で地図のような斑を描いていた。

「あのね、梅田君」

 思い切ったように切り出した。

「うん?」
「ずっと疑問に思ってたんだけど、どうして私なのかなって・・・・・・」
「何のこと?」
「どうして梅田君みたいな人が、私を好きなのかなって。だって梅田君を好きな女の子、たくさんいるでしょう?」
「吉岡はかわいいよ!」

 少しむきになって言った。すぐに気恥ずかしそうに笑い、彼は声のトーンを落とした。

「本当に吉岡はかわいいよ。好きになるのに理由はないから、なぜ好きかと言われても困るんだけど・・・・・・、うーん、しいて言えば、健気で守りたくなるところかな」

 風が心地よく、二人の体を通過していった。頭上の葉のこすりあう音が、嚠喨と二人の空間を包み込む。

「キスしていい?」

 梅田が言った。木漏れ日の斑の揺れる彼の顔に、咲羅は視線を当てられなかった。ただコクンとうなずいた。固く閉じられた咲羅の唇に、梅田の唇が軽く触れた。彼は、さわやかな石鹸の香りがした。
 
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