マドンナブルー
 咲羅は早朝の美術室に行くのをやめた。いまだ、彼女の心に影を留める安藤と二人きりなることは、梅田への裏切りに思えた。そのため県展の作品制作は、休日に高校へ赴きおこなった。平日の授業終了後、すぐに予備校へ向かう梅田は、かねてより休校日の美術室で、制作に取り組んでいたのだそうだ。今では咲羅とむつまじく、二人きりで過ごすようになっていた。

 県展の締め切りが二週間後に迫ったある日の昼休み、咲羅と梅田は校舎の屋上で過ごしていた。二人はコンクリートの台をイスがわりに座っている。季節はとっくに秋なのだが、この日は夏に戻ったような気候だった。

「咲羅、今日バイト休みだったよね。放課後美術室に寄ってこうぜ」

 梅田の周囲だけ、涼しげな風が吹いている。と咲羅は思う。

「陽一君、予備校は?」

 ためらっているのを隠し、平静を装った。

「言ってなかったっけ?今日休みなんだ」
「せっかく二人してフリーなんだし、一緒にどこか遊びに行こうよ」
「うーん、いや、やっぱり美術室へ行こう。みんなに俺たちの進み具合を見せつけようぜ」

 彼は嬉しそうに話す。二人きりで制作をしてきたという秘密めいたことに、彼は純粋に喜んでいるようだ。その様子に、咲羅の胸は痛んだ。彼女が放課後の美術室へ向かうのを渋るわけは、もちろん安藤にある。彼と顔を合わせるのがつらかった。その感情は、咲羅の心を占める安藤の領域が、想像以上に広大だということを認識させた。そのため、咲羅は梅田に対し、後ろめたさでいっぱいになった。

 咲羅は断る理由が見つからず、うんとうなずいた。とたんに梅田の顔は、輝き出した。

「もう十月だってのに、今日暑いな」

 彼はようやく異常気象に気づいたらしい。「ちょっとジュース買ってくる」と言い、軽やかな身のこなしで、階段へと続く戸口の奥へと消えていった。

 彼の足音は、階下へと遠ざかっていく。浮き立つような、軽快な足音である。その足音に、咲羅はさらに自己嫌悪におちいる。彼女はじっと動かないまま、しばらく宙を眺めていた。そして一点に焦点が定まった。鼓動が急に激しくなった。

 校舎はコの字型をしており、彼女の位置から向かいの廊下側が見渡せる。彼女の目に、廊下を歩く安藤の姿が映りこんだのだ。早朝の美術室に行かなくなった咲羅と安藤の接点は、週に一度きりの美術の授業のみである。しかし接点といっても、五十分の授業時間の中で、教師である安藤は、四十人もの生徒と平等に接しなければならない。そのため、網地島での合宿後、咲羅が安藤と関わりを持ったのは皆無に等しい。

 咲羅は彼の姿を見て、懐かしいような、温かいような、切ないような、とりとめのない感情となり、泣き出しそうになった。

「きゃあ!」

 突然、冷たさが頬を走り、驚いた声を出した。冷えた缶ジュースが、顔に押し当てられていたのだ。咲羅が上を見上げると、いたずらっぽい笑みを浮かべた梅田の顔があった。彼の屈託のなさに、咲羅は後ろめたい気持ちとなった。彼が戻るまでの間、別の男性を想い感傷に浸っていたのだ。

「もうっ!」

 咲羅は平静を装い、わざとらしく怒った。こんな自分をずるいと思う。梅田は咲羅にサイダーの缶を手渡すと、笑いながら彼女の隣に座った。

「俺、戻ってくるの早かっただろ?」

 彼の額に汗がきらめいた。少し息も上がっている。〝 少しでも咲羅と離れているのがつらくて ”という言葉が続いたのでは、と錯覚させるほど、彼が咲羅に向けるものすべてに甘さがある。そのことが、彼女をさらに暗い底へと沈めていく。

「あんまり早いから、誰のいたずらかと思ってびっくりした」

 白々しいと思いながらも、咲羅はそう言った。

「ハハハッ。ぽけーとしてるからだよ。俺以外の誰に、そんなに見とれてたんだ?」

 彼は冗談ぽく言いながら、何気なく、咲羅が先ほど見ていた視線の先に目をやった。彼をうかがっていた咲羅の目に、一瞬、さっと曇った梅田の表情が映った。彼の視界に、わずかな大きさの安藤の後姿が入り込んだのである。

「安藤?あいつを見ていたの?」

 彼の態度は穏やかなのだが、言葉の節々に、詰問の響きが感じられた。

「う、うん・・・・・・」

 あいまいに口ごもった。何か弁解しなくてはと思い、

「そういえば最近、安藤先生と顔を合わせてないなと思って・・・・・・」

 梅田は普段と変わらない涼しげな様子で、「ふーん」と相槌を打つと、ジュースのタブを開けた。彼は執着のない態度だったが、その後の彼の言葉数は、わずかに少なくなったように感じられた。
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