マドンナブルー
久々に立ち寄った美術室では、多くの部員が作品制作に励んでいた。安藤は、職員会議のためいなかった。
咲羅と梅田は、キャンバスを並べあって制作していた。そこへ、美奈子がやってきた。彼女は二人の作品を眺め、
「わあ!二人とも進んだね。ぜんぜん美術室に顔見せなかったのに」
「うん。私たち、休みの日に来て描いてたから」
「二人っきりの美術室は、さぞ集中できるんでしょうね。やらしい」
と、美奈子は二人をからかった。
「もう!何がやらしいのよ。邪魔するならあっち行ってよ」
冗談だと分かっていても、いちいちどぎまぎしてしまう。梅田とは、軽いキスまでしかしたことがない。やらしいと言われる覚えはないのだ。美奈子は笑いながら立ち去った。
咲羅は、気恥ずかしい気持ちでおそるおそる梅田を見た。彼は、何事もなかったかのような涼しげな表情で、制作を続けている。彼の絵は、複数の異素材を組み合わせた静物画である。どれも、手を伸ばせばつかめそうなほど精巧に描かれている。筆を持つ手が、とてもきれいだった。皮膚は白く滑らかで、指は細く長い。その、どこか女性的な彼の手を、咲羅はうっとりと眺めた。するとそれに反発するように、彼女の脳裏に安藤の男性的な、ごつごつとした大きな手が浮かび上がった。咲羅は彼をを払いのけようとしたが、なかなか彼は出て行こうとしない。苛立った彼女は、頭の中を梅田で満たそうと、彼を凝視した。
隣から、刺されるような視線に気づいた梅田は、筆を休めないまま咲羅に視線を向けた。そして優しくほほ笑むと、キャンバスに視線を戻し、ふたたび制作に入り込んでいった。
咲羅はぽーとしていた。先ほどまでの苛立ちが、きれいに消えていた。梅田の微笑には、うっとりさせる魔法のような力がある。同時に、童話の世界に夢中だったころのときめきを、呼び起こしてくれる。そんなとき、咲羅は梅田を童話の世界の王子様と錯覚してしまう。そんな彼の恋人である自分を、世界中の少女の夢を叶えた、世界一幸せな女の子なのだと酔う気持ちも、少なからずあった。
****
その日、夜七時近くまで咲羅と梅田は美術室に残っていた。他の部員はすでに下校しており、美術室に二人きりだった。彼らは後片付けをしながら、他愛ないおしゃべりをしている。
「陽一君は、どうして美術を好きになったの?」
「うーん、父さんが美術品収集が趣味で、小さいころから美術品に囲まれていたからかな」
「いいなー。じゃあ、中学のときも美術部?」
「違うよ。中学んときは陸上部」
「えー初耳!種目は何だったの?」
「何だと思う?」
そう問い返され、咲羅は手をごしごしと洗いながら考えた。
「分かった!長距離でしょ。陽一君すらっとしてて、マラソン選手みたいだもん」
「正解!よく分かったね。いちおう県大会で、一万メートル走で準優勝したことがあるんだぜ」
「一万メートルって十キロ?信じらんない。そんなに走ったら私死んじゃう」
「ハハハッ、練習すればすぐに走れるようになるよ」
何でもそつなくこなす彼は、やはりすごい!と咲羅が感心していると、彼女の脳裏にふたたび、彼女を悩ます想念が生まれた。梅田の痩身と対照的な、がっちりとした広い肩幅の安藤の姿が思い出され、もし彼が陸上部だったら・・・・・・、という想像をしてしまったのだ。
咲羅は、自分の中で展開される、些細な雑談にも加わってくる安藤のしつこさにうんざりした。美術室がいけないのだ。ここは、彼を思い出す要素が詰まりすぎている。咲羅は後片付けの手を早めた。いち早く、このいわくつきの部屋から抜け出そうとした。
画材ケースを片手に、咲羅は収納場所である準備室の戸口をくぐった。おもわず、彼女は足を止めた。
準備室の狭い空間から、安藤の気配をむせるように感じたのだ。棚の上に、彼の上着が置かれている。律儀にたたまれているのが、彼らしいと咲羅は思った。机の上には、いつも彼が使っていた見慣れたマグカップが置いてあり、底に、黒い液体が残っていた。
ほんの数時間前に、確かにここに安藤がいたという証が、におうように漂っていた。その様子に、咲羅は背後にある人の気配にも気づかず、茫然とした。
「咲羅・・・・・・」
耳のすぐそばから聞こえる梅田の声に、咲羅がぎくりとした。彼は咲羅の画材ケースを持たないほうの手首をつかむと、自分のほうへ振り向かせた。そのはずみでケースが落ち、ガチャン!と大きな音を立てた。その音に驚いたときにはもう、彼女の体は梅田の作る腕の輪の中にあり、同時に口を、彼の口で覆われた。突然の出来事に身構える間もなく、わずかに開いた歯と歯の間を押し広げるようにして、彼の舌が入ってきた。
誰が入ってくるかもわからない、準備室でのキスに、咲羅は戸惑った。抵抗したが、彼の腕の輪は頑丈で、咲羅の力ではびくともしない。
梅田の舌は巧みに動き、執拗に咲羅の舌に絡まった。やがて、彼女の抵抗は形だけのものへと変わった。普段の彼とは違う、あらあらしい行動に戸惑う気持ちは薄れ、ここが準備室であるということも忘れ、彼に身をゆだねていた。
しかし、我を失った咲羅を現実に引き戻す事態が起こった。彼女の聴覚に、聞き覚えのある足音が触れたのだ。一歩一歩に重みのある足音である。それが安藤の足音であると、咲羅はすぐに察した。まだ距離を感じる音ではあるが、その足音は、確実に美術室を目指していた。
咲羅はふたたび抵抗を起こした。しかし、彼女をあざ笑うように、彼女の体をぐるりと囲む輪は一層きつくなった。声を出そうにも、彼女の口は梅田の口でふさがれ抵抗できない。
足音は、ひと気のない夜の廊下に響きながら、少しずつ大きくなってくる。梅田もそのことに気づいているはずである。にもかかわらず、彼は足音が近づくにつれ、さらに激しくむさぼろうとする態度を示した。
咲羅と梅田は、キャンバスを並べあって制作していた。そこへ、美奈子がやってきた。彼女は二人の作品を眺め、
「わあ!二人とも進んだね。ぜんぜん美術室に顔見せなかったのに」
「うん。私たち、休みの日に来て描いてたから」
「二人っきりの美術室は、さぞ集中できるんでしょうね。やらしい」
と、美奈子は二人をからかった。
「もう!何がやらしいのよ。邪魔するならあっち行ってよ」
冗談だと分かっていても、いちいちどぎまぎしてしまう。梅田とは、軽いキスまでしかしたことがない。やらしいと言われる覚えはないのだ。美奈子は笑いながら立ち去った。
咲羅は、気恥ずかしい気持ちでおそるおそる梅田を見た。彼は、何事もなかったかのような涼しげな表情で、制作を続けている。彼の絵は、複数の異素材を組み合わせた静物画である。どれも、手を伸ばせばつかめそうなほど精巧に描かれている。筆を持つ手が、とてもきれいだった。皮膚は白く滑らかで、指は細く長い。その、どこか女性的な彼の手を、咲羅はうっとりと眺めた。するとそれに反発するように、彼女の脳裏に安藤の男性的な、ごつごつとした大きな手が浮かび上がった。咲羅は彼をを払いのけようとしたが、なかなか彼は出て行こうとしない。苛立った彼女は、頭の中を梅田で満たそうと、彼を凝視した。
隣から、刺されるような視線に気づいた梅田は、筆を休めないまま咲羅に視線を向けた。そして優しくほほ笑むと、キャンバスに視線を戻し、ふたたび制作に入り込んでいった。
咲羅はぽーとしていた。先ほどまでの苛立ちが、きれいに消えていた。梅田の微笑には、うっとりさせる魔法のような力がある。同時に、童話の世界に夢中だったころのときめきを、呼び起こしてくれる。そんなとき、咲羅は梅田を童話の世界の王子様と錯覚してしまう。そんな彼の恋人である自分を、世界中の少女の夢を叶えた、世界一幸せな女の子なのだと酔う気持ちも、少なからずあった。
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その日、夜七時近くまで咲羅と梅田は美術室に残っていた。他の部員はすでに下校しており、美術室に二人きりだった。彼らは後片付けをしながら、他愛ないおしゃべりをしている。
「陽一君は、どうして美術を好きになったの?」
「うーん、父さんが美術品収集が趣味で、小さいころから美術品に囲まれていたからかな」
「いいなー。じゃあ、中学のときも美術部?」
「違うよ。中学んときは陸上部」
「えー初耳!種目は何だったの?」
「何だと思う?」
そう問い返され、咲羅は手をごしごしと洗いながら考えた。
「分かった!長距離でしょ。陽一君すらっとしてて、マラソン選手みたいだもん」
「正解!よく分かったね。いちおう県大会で、一万メートル走で準優勝したことがあるんだぜ」
「一万メートルって十キロ?信じらんない。そんなに走ったら私死んじゃう」
「ハハハッ、練習すればすぐに走れるようになるよ」
何でもそつなくこなす彼は、やはりすごい!と咲羅が感心していると、彼女の脳裏にふたたび、彼女を悩ます想念が生まれた。梅田の痩身と対照的な、がっちりとした広い肩幅の安藤の姿が思い出され、もし彼が陸上部だったら・・・・・・、という想像をしてしまったのだ。
咲羅は、自分の中で展開される、些細な雑談にも加わってくる安藤のしつこさにうんざりした。美術室がいけないのだ。ここは、彼を思い出す要素が詰まりすぎている。咲羅は後片付けの手を早めた。いち早く、このいわくつきの部屋から抜け出そうとした。
画材ケースを片手に、咲羅は収納場所である準備室の戸口をくぐった。おもわず、彼女は足を止めた。
準備室の狭い空間から、安藤の気配をむせるように感じたのだ。棚の上に、彼の上着が置かれている。律儀にたたまれているのが、彼らしいと咲羅は思った。机の上には、いつも彼が使っていた見慣れたマグカップが置いてあり、底に、黒い液体が残っていた。
ほんの数時間前に、確かにここに安藤がいたという証が、におうように漂っていた。その様子に、咲羅は背後にある人の気配にも気づかず、茫然とした。
「咲羅・・・・・・」
耳のすぐそばから聞こえる梅田の声に、咲羅がぎくりとした。彼は咲羅の画材ケースを持たないほうの手首をつかむと、自分のほうへ振り向かせた。そのはずみでケースが落ち、ガチャン!と大きな音を立てた。その音に驚いたときにはもう、彼女の体は梅田の作る腕の輪の中にあり、同時に口を、彼の口で覆われた。突然の出来事に身構える間もなく、わずかに開いた歯と歯の間を押し広げるようにして、彼の舌が入ってきた。
誰が入ってくるかもわからない、準備室でのキスに、咲羅は戸惑った。抵抗したが、彼の腕の輪は頑丈で、咲羅の力ではびくともしない。
梅田の舌は巧みに動き、執拗に咲羅の舌に絡まった。やがて、彼女の抵抗は形だけのものへと変わった。普段の彼とは違う、あらあらしい行動に戸惑う気持ちは薄れ、ここが準備室であるということも忘れ、彼に身をゆだねていた。
しかし、我を失った咲羅を現実に引き戻す事態が起こった。彼女の聴覚に、聞き覚えのある足音が触れたのだ。一歩一歩に重みのある足音である。それが安藤の足音であると、咲羅はすぐに察した。まだ距離を感じる音ではあるが、その足音は、確実に美術室を目指していた。
咲羅はふたたび抵抗を起こした。しかし、彼女をあざ笑うように、彼女の体をぐるりと囲む輪は一層きつくなった。声を出そうにも、彼女の口は梅田の口でふさがれ抵抗できない。
足音は、ひと気のない夜の廊下に響きながら、少しずつ大きくなってくる。梅田もそのことに気づいているはずである。にもかかわらず、彼は足音が近づくにつれ、さらに激しくむさぼろうとする態度を示した。