マドンナブルー
準備室のドアの取っ手に、足音の主の手がかかる気配がした。ドアが勢いよく開いた。

「わあ、びっくりした」

 人がいると思っていなかった安藤は、驚いた声を出した。ドアの隔たりが消え、咲羅と梅田は安藤と向かい合っていた。しかしこのときはもうすでに、咲羅と梅田はなんら不自然でない距離を保っていた。

「こんな時間まで残ってたんだな」

 と安藤が言った。梅田は、いつもの涼やかな色を取り戻している。彼は、先ほど咲羅が落とした画材ケースを拾い上げ、それを所定場所に戻した。

「先生、こんな時間まで会議ですか?大変ですね」

 何食わぬ態度で梅田が言った。

「そうなんだよ。ああでもない、こうでもないって、なかなか終わらなくてまいったよ。こっちは腹がすきすぎて会議どころじゃないってのに」
「先生はすごい量食べそうですもんね」
「僕の歳で欲望にまかせて食べてたら、あっという間に太鼓腹だよ。だからこう見えて結構少食なんだよ」
「まじっすか」

 梅田と安藤は、和やかに会話をしていた。咲羅は二人から隠れるように、無言でうつむいていた。梅田が咲羅をキスから解放したのは、安藤が準備室のドアを開いた、そのときだったのだ。彼女は、いまだ熱の残る唇に気恥ずかしさを覚えながら、梅田の鮮やかなまでの切り替えに脱帽した。同時に、非の打ち所などないのではと感じていた梅田の、狡猾な面を見た気もした。

 それから数分間、安藤と梅田は、作品の進み具合について、笑みを交えながら話していた。それが終わり、咲羅と梅田は下校する運びとなった。

「俺、咲羅の荷物も持ってくるから待ってて」

 梅田はそう言うと、美術室へと消えていった。

 準備室に取り残された咲羅は、安藤と二人っきりとなった。気詰まりな空気だった。安藤もその空気を感じているようで、彼も無言だった。

 ずっとうつむいていた咲羅が、おそるおそる顔を上げて安藤を盗み見たとき、彼と目が合った。彼は言葉に詰まり、ただほほ笑んだ。この空気を何とかしたかったのだ。

 咲羅が安藤と顔を合わせたのは、網地島での合宿以来である。およそ二ヶ月ぶりだ。その間、咲羅は安藤を忘れようとあがいてきた。二ヶ月ぶりに彼と向かい合い、嬉しいような、切ないような、苦しいような・・・・・・、とりとめのない気持ちとなり、おもわず安藤から顔を背けてしまった。自分でも分かるほど、彼女の顔は一瞬にして淡い桃色に染まっていた。

「もう外は暗いから、気をつけて帰るんだぞ」

 と、安藤がうつむく咲羅に話しかけたとき、強い語調の梅田の声が、咲羅の背後から響いた。

「先生!そんな心配いりません。俺が責任もって彼女を送り届けますから!」

 咲羅と安藤は、驚いて声のほうへ向いた。安藤をにらみつける梅田の姿があった。彼は肩を尖らせ、今にも安藤に襲い掛かりそうな激しさを立ちのぼらせている。

 胸の底に、安藤に向かう後ろめたい感情をひそめる咲羅は、憤怒の色を見せる梅田の姿にぎくりとした。一方、事情を知らない安藤は、ただポカンとしている。

 安藤に向けられていた梅田の鋭い視線は、咲羅へと移動した。梅田はずかずかと咲羅のもとへ歩み寄ると、彼女の手首をつかんだ。

「咲羅、行こう」

 梅田はそう言うと、咲羅を引きずるようにして準備室から出て行った。

                        ****

「痛い痛い!陽一君、手を離して!」

 夜の薄暗い廊下を、梅田は咲羅の訴えに応じることなく、憑かれたように歩き進んだ。梅田は速足の形だが、咲羅は、ほとんど走る格好となっていた。

「もういい加減にして!」

 業を煮やした咲羅が大声を上げると、突然彼の手から力が消え、咲羅の手はすっぽ抜けた。梅田は二、三歩一人で足を進めた後、急にぴたりと立ち止まった。彼は咲羅に背を向けたまま、何か言っている。しかしその声はとても小さく、聞き取れない。

「えっ、何?何て言ったの?」

 梅田の後姿は、焦燥感があふれ出ているようだった。普段の余裕はどこにもなかった。こんな様子の彼を見るのは初めてで、咲羅は不穏な心境だった。

「安藤の目、ムカつくんだよ・・・・・・」

 これまた小さな声だが、今度ははっきりと聞こえた。

「えっ・・・・・・」
「安藤の咲羅を見る目がムカつくって言ってるんだよ!」

 梅田は声を張り上げ、咲羅のほうへ振り向いた。ずかずかと彼女のもとへ歩み寄ると、彼女の両肩を強くつかんだ。

「あいつなのか、咲羅が好きだったやつって・・・・・・、安藤のことなのか」

 梅田は、煮えたぎる腹の底から、一語一語押し上げるような語調で詰問した。

「違うよ。そんなわけないじゃん・・・・・・」

 とっさに嘘が口を出た。彼の強い目を直視できなかった。

「嘘つくな!あいつだろう!」
「だから違うわよ!」
「いいや、俺は前から咲羅が安藤を好きなことに気づいてた」
「だから違うって言ってるじゃない!」
「じゃあ誓えよ。絶対俺を裏切らないって誓えよ」

 彼の言葉は脅迫めいていた。恐怖でいっぱいの咲羅の口から、無意識に言葉が漏れた。

「絶対に、陽一君を裏切らない・・・・・・」
「俺だけを好きでいるって誓えよ」
「陽一君だけを好きでいる・・・・・・」

 こわばっていた梅田の表情は、みるみると崩れていった。入れ替わり、今にも泣き出しそうな、おびえた表情となった。

「咲羅・・・・・・!」

 彼は搾り出したような細い声を上げ、咲羅を抱きしめた。

「俺を嫌わないで・・・・・・、頼むから、俺を嫌わないで・・・・・・」

 梅田の体は小刻みに震えていた。咲羅は困惑しながら、暗がりを怖がる幼児のような彼の背に、そっと手を置いた。

 
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