マドンナブルー
その週末、咲羅は美術室で一人キャンバスに向かっていた。いつもなら一緒の梅田は、用事があるとのことで来なかった。先日の夜の一件もあり、梅田の不在は咲羅を気楽な気分にさせた。
県展の締め切りが一週間を切ったというのに、咲羅は完成のめどが立たない。そのため早朝から制作に励んでいた。
日がだいぶ高くなった。窓から明るい秋の日差しが降り注ぐ。咲羅は背伸びをし、凝り固まった筋肉をほぐした。休憩しようと手を洗い、コンビニで買ってきた商品を机に並べた。すべてお菓子である。「新商品」の文字に釣られ、ついついあれもこれもと買ってしまったのだ。もちろん、今すべて食べるわけではない。ただ、たくさんのお菓子の中から選ぶというワクワク感に浸り、少しでも最近の憂鬱を取り去りたかった。
咲羅は大きなシュークリームを両手で持ち、がぶりとほおばった。はみ出したクリームが口の周りに付いていることなどお構いなしに、むしゃむしゃと食べた。
そのとき、ガラガラッとドアが開いた。咲羅は驚いてドアを見ると、そこに、安藤がいた。彼も驚いているようで、戸口で立ち止まったまま咲羅を見ている。大きなシュークリームを両手で持ち、口の周りにクリームをを付け、きょとんとしている咲羅の姿に、彼はおもわず吹き出した。
「おいしそうな口だな」
安藤のその言葉を咲羅は勘違いし、ボッと赤面した。彼が、自分とキスしたがっていると解釈したのだ。
「口の周り、クリームだらけだよ」
そう言われ、咲羅はあわててティッシュでぬぐった。
「一人でピクニックしてたのか。そんなに食べたら太るぞ」
安藤は、机に広がるたくさんのお菓子を見て言った。とっさに咲羅は、輪にした両腕で囲んで隠した。
「違います。別に、全部食べるわけでは・・・・・・」
「ハハハッ。冗談だよ。成長期なんだしどんどん食べるといい」
彼は笑いながら、準備室へと姿を消した。
咲羅はふたたび一人きりとなる。ぼうっとしながら、机に並んだお菓子をレジ袋に戻した。どきどきした気持ちと共に、じわじわと、温かみが胸に広がった。網地島での一件以来、彼を痛々しく思ってきたのだが、その彼と、以前のように普通に接し合えたことは、やはり嬉しかった。
短い休憩を終え、ふびたた咲羅はキャンバスに向かった。・・・・・・が、集中できない。無意識に、彼女は触手を伸ばすようにして、準備室を探っていた。
「コーヒーいれようか?」
突然、安藤が準備室から顔をのぞかせた。咲羅はびっくりして触手を引っ込ませた。
「あっ、いただきます」
と平静を装う。
数分後、安藤は二つのマグカップを手にし、準備室から出てきた。そして一つを咲羅に手渡す。ミルクの混じるマイルドな香りがした。懐古的な気分に浸りながら、一口飲んだ。
「先生、土曜日にいらっしゃるなんて珍しいですね」
「月曜日の授業の資料を作るのを忘れてたんだ。ちょうど君のクラスだよ。あやうく一時間自習をさせるところだった」
「よかったですね。もう終わったんですか?」
「ああ何とかね」
二人がまともに会話をするのは実に二ヶ月ぶりで、合宿以来なのだが、空白を感じさせない雰囲気だった。咲羅は平静を保つのに努力していたが、安藤のほうは、彼が網地島の浜辺で、涙ながらに悲痛な過去を告白したのが夢だったかのように、まったくもって普通に見えた。
その後、安藤は熱心に咲羅を指導した。以前、早朝の美術室で展開されてきた光景である。
一とおり指導を受け、咲羅は彼の助言を踏まえて制作に臨んでいた。すぐに帰ると思っていた安藤は、マグカップを片手に持ち、窓際にたたずんで海を眺めているようだった。咲羅にとって見慣れた光景なのだが、彼は、そうすることで亡くなった妻子をしのんでいるのだと、今となっては解釈できる。そのため、彼のその行為がつらかった。決して、彼の背に触れることはできないのだと痛感した。
咲羅は、キャンバスに向かいながらときおり安藤を盗み見ていたのだが、何度目かのとき、ギクリとした。彼の背ではなく、腹側が彼女に向いていたのだ。目が合ったかどうかまでは分からなかった。なぜなら、秋晴れの空にいつの間にか立ち込めた暗雲で、美術室はかなり薄暗く、逆光となった彼の体は黒く塗りつぶされていたからだ。咲羅は金縛りにあったように、彼から目をそらすことができなかった。
「吉岡が僕を避けるのは、僕が合宿で、あんな話を打ち明けたからなのかな・・・・・・」
咲羅は返答に詰まった。のどが干上がるのを感じた。
「生徒の君に、あんなつまらない話をして悪かったと思ってる。お願いだから、僕を避けないでほしい。だって君には美大に行くという夢があるだろう?そうしたら美術教師である僕も、ある程度の介入がでてくる。君にもっと指導して、技術を磨いてほしいとも思ってる。だから僕を嫌いだからって、避けないでほしいんだ」
「私、先生が嫌いなわけではありません」
そう即答した直後、羞恥し口をつぐんだ。彼は、「よかった」と静かに言った。
明るい光を浴びない海は、黒くどろりとして不気味だった。それを背景にたたずむ安藤の体が、その不気味な広がりの中へ溶け込んでいくという錯覚におちいり、咲羅を不穏な気持ちにさせた。
「先生、一つお聞きしていいですか?」
「うん?」
「どうして、先生は私にあんな話をしたんですか?」
何かを期待してたずね、緊張して彼の返答を待った。すっかり暗がりに慣れた咲羅の目が、「うーん」と考えるあいまいな安藤の表情を捉えた。
「誰かに、つらい気持ちを聞いてほしかった。苦しくて、誰かに甘えたかった・・・・・・」
「話を聞いてもらえるなら、誰でもよかったということですか?」
少し沈黙が流れた。安藤は、相変わらずあいまいな表情のまま、
「そういうことになるな。あのとき、たまたま君が近くにいたから・・・・・・」
咲羅の中の何かが、激しくはじけ、散った。
「私、そろそろ帰ります」
咲羅はいそいそと帰り支度を始めた。その間、安藤は咲羅に背を向け窓際にたたずんでいた。
咲羅が退室するとき、安藤は彼女のほうへ振り返った。
「雨降りそうだから送ろうか」
「いえ、結構です」
咲羅は逃げるようにして、美術室を後にした。
県展の締め切りが一週間を切ったというのに、咲羅は完成のめどが立たない。そのため早朝から制作に励んでいた。
日がだいぶ高くなった。窓から明るい秋の日差しが降り注ぐ。咲羅は背伸びをし、凝り固まった筋肉をほぐした。休憩しようと手を洗い、コンビニで買ってきた商品を机に並べた。すべてお菓子である。「新商品」の文字に釣られ、ついついあれもこれもと買ってしまったのだ。もちろん、今すべて食べるわけではない。ただ、たくさんのお菓子の中から選ぶというワクワク感に浸り、少しでも最近の憂鬱を取り去りたかった。
咲羅は大きなシュークリームを両手で持ち、がぶりとほおばった。はみ出したクリームが口の周りに付いていることなどお構いなしに、むしゃむしゃと食べた。
そのとき、ガラガラッとドアが開いた。咲羅は驚いてドアを見ると、そこに、安藤がいた。彼も驚いているようで、戸口で立ち止まったまま咲羅を見ている。大きなシュークリームを両手で持ち、口の周りにクリームをを付け、きょとんとしている咲羅の姿に、彼はおもわず吹き出した。
「おいしそうな口だな」
安藤のその言葉を咲羅は勘違いし、ボッと赤面した。彼が、自分とキスしたがっていると解釈したのだ。
「口の周り、クリームだらけだよ」
そう言われ、咲羅はあわててティッシュでぬぐった。
「一人でピクニックしてたのか。そんなに食べたら太るぞ」
安藤は、机に広がるたくさんのお菓子を見て言った。とっさに咲羅は、輪にした両腕で囲んで隠した。
「違います。別に、全部食べるわけでは・・・・・・」
「ハハハッ。冗談だよ。成長期なんだしどんどん食べるといい」
彼は笑いながら、準備室へと姿を消した。
咲羅はふたたび一人きりとなる。ぼうっとしながら、机に並んだお菓子をレジ袋に戻した。どきどきした気持ちと共に、じわじわと、温かみが胸に広がった。網地島での一件以来、彼を痛々しく思ってきたのだが、その彼と、以前のように普通に接し合えたことは、やはり嬉しかった。
短い休憩を終え、ふびたた咲羅はキャンバスに向かった。・・・・・・が、集中できない。無意識に、彼女は触手を伸ばすようにして、準備室を探っていた。
「コーヒーいれようか?」
突然、安藤が準備室から顔をのぞかせた。咲羅はびっくりして触手を引っ込ませた。
「あっ、いただきます」
と平静を装う。
数分後、安藤は二つのマグカップを手にし、準備室から出てきた。そして一つを咲羅に手渡す。ミルクの混じるマイルドな香りがした。懐古的な気分に浸りながら、一口飲んだ。
「先生、土曜日にいらっしゃるなんて珍しいですね」
「月曜日の授業の資料を作るのを忘れてたんだ。ちょうど君のクラスだよ。あやうく一時間自習をさせるところだった」
「よかったですね。もう終わったんですか?」
「ああ何とかね」
二人がまともに会話をするのは実に二ヶ月ぶりで、合宿以来なのだが、空白を感じさせない雰囲気だった。咲羅は平静を保つのに努力していたが、安藤のほうは、彼が網地島の浜辺で、涙ながらに悲痛な過去を告白したのが夢だったかのように、まったくもって普通に見えた。
その後、安藤は熱心に咲羅を指導した。以前、早朝の美術室で展開されてきた光景である。
一とおり指導を受け、咲羅は彼の助言を踏まえて制作に臨んでいた。すぐに帰ると思っていた安藤は、マグカップを片手に持ち、窓際にたたずんで海を眺めているようだった。咲羅にとって見慣れた光景なのだが、彼は、そうすることで亡くなった妻子をしのんでいるのだと、今となっては解釈できる。そのため、彼のその行為がつらかった。決して、彼の背に触れることはできないのだと痛感した。
咲羅は、キャンバスに向かいながらときおり安藤を盗み見ていたのだが、何度目かのとき、ギクリとした。彼の背ではなく、腹側が彼女に向いていたのだ。目が合ったかどうかまでは分からなかった。なぜなら、秋晴れの空にいつの間にか立ち込めた暗雲で、美術室はかなり薄暗く、逆光となった彼の体は黒く塗りつぶされていたからだ。咲羅は金縛りにあったように、彼から目をそらすことができなかった。
「吉岡が僕を避けるのは、僕が合宿で、あんな話を打ち明けたからなのかな・・・・・・」
咲羅は返答に詰まった。のどが干上がるのを感じた。
「生徒の君に、あんなつまらない話をして悪かったと思ってる。お願いだから、僕を避けないでほしい。だって君には美大に行くという夢があるだろう?そうしたら美術教師である僕も、ある程度の介入がでてくる。君にもっと指導して、技術を磨いてほしいとも思ってる。だから僕を嫌いだからって、避けないでほしいんだ」
「私、先生が嫌いなわけではありません」
そう即答した直後、羞恥し口をつぐんだ。彼は、「よかった」と静かに言った。
明るい光を浴びない海は、黒くどろりとして不気味だった。それを背景にたたずむ安藤の体が、その不気味な広がりの中へ溶け込んでいくという錯覚におちいり、咲羅を不穏な気持ちにさせた。
「先生、一つお聞きしていいですか?」
「うん?」
「どうして、先生は私にあんな話をしたんですか?」
何かを期待してたずね、緊張して彼の返答を待った。すっかり暗がりに慣れた咲羅の目が、「うーん」と考えるあいまいな安藤の表情を捉えた。
「誰かに、つらい気持ちを聞いてほしかった。苦しくて、誰かに甘えたかった・・・・・・」
「話を聞いてもらえるなら、誰でもよかったということですか?」
少し沈黙が流れた。安藤は、相変わらずあいまいな表情のまま、
「そういうことになるな。あのとき、たまたま君が近くにいたから・・・・・・」
咲羅の中の何かが、激しくはじけ、散った。
「私、そろそろ帰ります」
咲羅はいそいそと帰り支度を始めた。その間、安藤は咲羅に背を向け窓際にたたずんでいた。
咲羅が退室するとき、安藤は彼女のほうへ振り返った。
「雨降りそうだから送ろうか」
「いえ、結構です」
咲羅は逃げるようにして、美術室を後にした。