マドンナブルー
 上空は、かろうじて雨粒を落とすのを持ちこたえているという具合である。ここからバス停まで、五百メートルほど歩かなければならない。傘の持ち合わせのない咲羅は、早足でバス停を目指した。・・・・・・が、雨はすぐに降り出した。ポツポツとした雨は、あっという間に線となり、激しく地面を打ちつけた。

 咲羅はバッグを頭上に掲げ、走り出した。しかし横殴りの雨は、容赦なく彼女の体を濡らしていく。

 そのとき、一台の車が彼女のわきを通過した。その車はハザードランプを点滅させながら、彼女の五メートルほど前方で停車した。何か自分と関係あるものと感じた咲羅は、その車のわきを通る際、車内をチラッとのぞいた。運転席にいる安藤の姿を、雨で覆われた窓ガラスを隔てて彼女の目が捉えた。助手席の窓ガラスがゆっくりと下がっていき、安藤の顔は鮮明となった。

「乗って」

 そう言われ、咲羅はためらった。しかし雨風の中、選択肢はなかった。彼女は後部座席におずおずと乗り込んだ。車内を濡らさないよう、背筋を伸ばして浅く座った。安藤は長い腕を伸ばし、助手席のダッシュボードをあさっている。狭い車内に、雨音とワイパーの音だけが鳴っていた。

「これ使って」と、安藤は咲羅にフェイスタオルを差し出した。ふたたび咲羅がためらっていると、彼はにこっと笑い、

「大丈夫。洗濯済みだよ。風邪引くから使いなさい」

 と言った。彼女は遠慮がちにタオルを受け取った。

「うちはどこ?」

 安藤はミラー越しにたずねた。

「復興団地です」

 彼は何か言おうと口を開いたが、すぐにつぐんだ。ただ、「その場所は知ってるよ」とだけ言い、車を発進させた。

 車内は沈黙だった。彼の車は小型の軽自動車である。大柄の彼には窮屈そうだが、殺風景で簡素で、それが安藤らしいと咲羅は感じた。

 気詰まりな空気がしばらく続いた後、

「梅田と付き合ってるの?」

 彼は急にたずねた。ひたすら窓の外を見つめていた咲羅は驚いた。のどが干上がるのを感じながら、「はい」と小さくかすれた声で答えた。

「へえ」と安藤は言い、フロントガラスの向こうに視線を置く彼の目は、考える色となった。
「この前梅田の様子がおかしかったけど、君が彼と付き合っていることと、何か関係があるのかな」

 なんだそういうことかと、彼の関心が自分の恋愛事情にあるわけではないと知り、咲羅はいくばくのわびしさを覚えた。

「ああ、あのときはすみませんでした。陽一君、あのときナーバスになってて」
「なんだうまくいってないのか」

 彼の口調には、咲羅と梅田の仲を取り持とうとする響きがある。

「そういうわけではないんですが、陽一君と付き合い始めたころ、私他に好きな人がいたんです。彼もそれを知ってるので、些細なことで不安になるようなんです」
「じゃああのとき、梅田は僕と君の仲を疑ったってことか」

 安藤はあきれたように言った。咲羅は、そんなことありえないだろうとでも言われたような気がし、彼女の心は沈んだ。

「ほんと笑えますよね。冗談にもほどがありますよ。何で私が先生みたいなおじさんと」

 精一杯明るく振舞った。安藤は笑い出し、

「おじさんとはひどいな。まあ吉岡から見たら、僕はれっきとしたおじさんか」
「そうです。超おじさん」
「でも、ちょっとおかしくないか?」

 彼は急に真顔となり、

「他に好きな男がいるのに、梅田と付き合うなんておかしいだろう」

 と説教口調で言う。

「私、夏休みに失恋したんです。その直後に陽一君に告白されて、他に好きな人がいてもいいから付き合ってほしいと言われて・・・・・・」

 咲羅は、ひそかにミラー越しの安藤をうかがっていた。しかし彼の顔色は、一つも変わらなかった。

「それで、今はちゃんと梅田を好きになったのか?」

 相変わらず子を諭すような口調である。そんな子供扱いする彼に、強く告知するように、誇示するように、「はい」と答えた。

 ずっと変化のなかった安藤の表情が、フッと緩んだ。

「しかし、君を振った男は見る目がないと思うよ。そんなの気にするなよ。大丈夫。吉岡は十分魅力があるよ」

 何か糸がぷつんと切れたように、彼女は崩れた。

「先生!やめてください!」

 突然大声を出した咲羅に安藤は驚き、ミラー越しに彼女を見た。肩を小さく震わせ、うなだれている咲羅の姿が映った。

「先生、そんな冗談言うのやめてください・・・・・・。でないと私、どうにかなっちゃいます・・・・・・」

 か細い声でそう搾り出した。咲羅は顔を上げられなかった。とめどなく流れる涙を、どうすることもできなかった。

 咲羅の嗚咽をかき消すように、雨音はさらに大きくなった。二人はその後言葉を交わすことなく、煙るような街を、車は走り抜けていった。
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