マドンナブルー
翌日、咲羅と梅田は待ち合わせ場所の喫茶店にいた。咲羅は彼に分かれてほしいと伝えた後、申し訳ない気持ちから、頭を上げることができなかった。
「咲羅、分かったから頭上げてよ」
なおも咲羅は頭を下げていた。店内は多くの客でにぎわっている。彼は周囲の目を気にし、閉口したように、
「頼むから、頭を上げてくれ」
咲羅は静かに顔を上げた。
「本当にごめんなさい」
梅田は意外にも穏やかな表情だった。先日の夜の激情ぶりと比較すると、咲羅は気抜けした気分だった。
「もういいよ。こうなることを、何となく予想はしてたんだ。この前の夜はすげー嫌なとこ見せちゃったしな」
「ううん。それが直接の原因というわけではないの」
「それもわかってるよ。好きだって言ってたやつのこと、忘れられなかったんだろ?」
咲羅は気まずそうにうなずいた。それを見た梅田は、両手を頭の後ろで組み、体をのけぞらせた。
「あーあ」
とぶっきらぼうに言う。不機嫌そうな彼の様子に、咲羅は泣きそうになった。
「あーあ。俺の名声に傷がついちまった。俺、どんな女の子でも落とせるって盛名をはせてたんだぜ。これじゃあ俺の評判ガタ落ちだな」
粗野な口調だが、咲羅を元気付けようとする彼の優しさがにじんでおり、愛嬌があった。そんな彼の気遣いに、咲羅は別の意味で泣きそうになった。梅田はにやりと笑い、
「まだ十時だぜ。別れるのは明日として、今日は俺に付き合えよ」
そう言い、二人は店を出た。
****
二人はシネコンに入った。さまざまなジャンルの映画が上映されている。咲羅が洋画のラブコメディを提案したのに対し、梅田は邦画のホラーを主張した。議論の末、ホラーが優勢勝ちとなった。ラブコメディは、三十分ほど前にすでに上映が始まっており、ホラーはこれから十分後の開始である。それが決定打だった。
「ねえ、本当にこれ観るの?」
二人はチケットを買う列に並んでいた。不安そうな咲羅の視線の先に、ホラー映画のポスターが掲げてある。全体的に青黒く不気味で、中央に移る女優の顔が恐怖でゆがんでいた。思惑通りの咲羅の反応に、梅田は悪擦れた笑みを口元に浮かべた。
「うん。絶対にこれが観たい。咲羅の絶叫するところが見たい」
意地悪な言葉の底に、甘さがあった。
****
二時間後、咲羅と梅田はシネコンを後にした。映画が終了してから、彼はずっと笑っている。明るい通りに出ても、彼の笑いは続いた。
「もう何よ、そんなに笑わなくてもいいのに」
彼女はそう怒ったが、内心は違った。梅田との最後のデートを気まずいものでなく、楽しいものにできているという喜びがあった。
「しかしあのおっさん。すげー嬉しそうだったよな」
相変わらず彼は笑っている。
映画の上映中、咲羅は幾度となく悲鳴を上げた。しかしその声は、他の観客の悲鳴とかさなりあったり、映画の音声に紛れるなどして、大勢の中の一観客として観賞していた。
咲羅の隣に背広姿の中年男性が座っていた。つまり彼女の席は、梅田とその男性に挟まれている。昼間の映画館を、一人で訪れる背広姿の中年男性は、さまざまな身辺を憶測される。それが平日であったら、リストラされたと推測される。リストラされた事実を家族に打ち明けられないまま、朝いつも通り背広をまとい、何食わぬ顔で出勤する。そしてそれが休日となると、家に居場所のない、気弱な男性と思ってしまう。休日出勤と偽り、しかたなく家を出る。・・・・・・そんな情景を想像してしまう。咲羅の隣に一人で座る中年男性からも、例外なくわびしさが立ちのぼっていた。
ちょっとした事件が起きたのは、映画が終盤にさしかかり、一番の絶叫ポイントとなったときである。恐怖のあまり、おもわず咲羅は隣の梅田に抱きついてしまった。直後、しまった!と思った。先ほど喫茶店で梅田が口にした、「別れるのは明日にして・・・・・・」というせりふから考えれば、まだ二人は恋人同士に違いない。しかし別れ話を切り出した以上、面目がなかった。
咲羅は気まずい気持ちで、彼の体から離れようとした。・・・・・・が、何かがおかしい。彼の服がやたらと厚みがあり、ごわっとしている。防虫剤のような刺激臭もある。嫌な予感がした。咲羅はおそるおそる顔を上げた。すると、知らない男性の顔があった。驚いた様子で咲羅を見ている。彼女は梅田と間違えて、反対側に座る男性に抱きついてしまったのだ。
苦手なホラー映画に引きずり込まれ、心身に戦慄が走っていた彼女は、軽い錯乱状態におちいった。そのためパニックとなり、幽霊でも見たかのような悲鳴を上げた。しかしそのとき、映画は恐怖の部分をすでに脱しており、館内に響いた悲鳴は咲羅の声だけだった。そのため何事かと、館内は一時騒然とした。
梅田とその男性は、取り乱す咲羅に唖然としていたが、すぐに気抜けしたように大笑いしだした。ホラー映画を上映中の緊迫した館内で、なんら恐怖でない場面で一人の女の悲鳴が響き、入れ替わり二人の男の大笑いをとどろかせた。彼らは迷惑な客として、周囲の白い視線を集めることとなったのだが、後味はなんだかすがすがしかった。映画終了後、その背広姿の男性の後姿は、女子高生に抱きつかれた喜びからか、もしくは久々に笑った心地よさからか、わびしさが薄れ、浮き立っているように見えた。
咲羅は梅田との別れを決心したものの、初めての恋人である梅田との思い出をたどると、胸が熱くなる。そのため、その背広の男性との出来事は、うら悲しい最後のデートを楽しいものへと変える、スパイスのような役割を果たした。
その後二人は、一度食べてみたかったパンケーキ店の行列に並んだり、美術館に行くなどして最後のデートを楽しんだ。
****
ぽつりぽつりと、街が明かりをともし始めた夕暮れ、咲羅と梅田は駅のホームにたたずみ電車を待っていた。今日一日の楽しかった出来事は、すべて虚構だったのでは・・・・・・、と錯覚するほど、今の二人の隙間にあるのは、わびしさと、よそよそしさだけである。
電車の音が近づいてきた。そのとき梅田は、「あっ!」と言った。寝床についてから、やり残した宿題に気づいたような、そんな声である。
「そういえば、まだ俺んち来たことなかったよね。来る?」
「咲羅、分かったから頭上げてよ」
なおも咲羅は頭を下げていた。店内は多くの客でにぎわっている。彼は周囲の目を気にし、閉口したように、
「頼むから、頭を上げてくれ」
咲羅は静かに顔を上げた。
「本当にごめんなさい」
梅田は意外にも穏やかな表情だった。先日の夜の激情ぶりと比較すると、咲羅は気抜けした気分だった。
「もういいよ。こうなることを、何となく予想はしてたんだ。この前の夜はすげー嫌なとこ見せちゃったしな」
「ううん。それが直接の原因というわけではないの」
「それもわかってるよ。好きだって言ってたやつのこと、忘れられなかったんだろ?」
咲羅は気まずそうにうなずいた。それを見た梅田は、両手を頭の後ろで組み、体をのけぞらせた。
「あーあ」
とぶっきらぼうに言う。不機嫌そうな彼の様子に、咲羅は泣きそうになった。
「あーあ。俺の名声に傷がついちまった。俺、どんな女の子でも落とせるって盛名をはせてたんだぜ。これじゃあ俺の評判ガタ落ちだな」
粗野な口調だが、咲羅を元気付けようとする彼の優しさがにじんでおり、愛嬌があった。そんな彼の気遣いに、咲羅は別の意味で泣きそうになった。梅田はにやりと笑い、
「まだ十時だぜ。別れるのは明日として、今日は俺に付き合えよ」
そう言い、二人は店を出た。
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二人はシネコンに入った。さまざまなジャンルの映画が上映されている。咲羅が洋画のラブコメディを提案したのに対し、梅田は邦画のホラーを主張した。議論の末、ホラーが優勢勝ちとなった。ラブコメディは、三十分ほど前にすでに上映が始まっており、ホラーはこれから十分後の開始である。それが決定打だった。
「ねえ、本当にこれ観るの?」
二人はチケットを買う列に並んでいた。不安そうな咲羅の視線の先に、ホラー映画のポスターが掲げてある。全体的に青黒く不気味で、中央に移る女優の顔が恐怖でゆがんでいた。思惑通りの咲羅の反応に、梅田は悪擦れた笑みを口元に浮かべた。
「うん。絶対にこれが観たい。咲羅の絶叫するところが見たい」
意地悪な言葉の底に、甘さがあった。
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二時間後、咲羅と梅田はシネコンを後にした。映画が終了してから、彼はずっと笑っている。明るい通りに出ても、彼の笑いは続いた。
「もう何よ、そんなに笑わなくてもいいのに」
彼女はそう怒ったが、内心は違った。梅田との最後のデートを気まずいものでなく、楽しいものにできているという喜びがあった。
「しかしあのおっさん。すげー嬉しそうだったよな」
相変わらず彼は笑っている。
映画の上映中、咲羅は幾度となく悲鳴を上げた。しかしその声は、他の観客の悲鳴とかさなりあったり、映画の音声に紛れるなどして、大勢の中の一観客として観賞していた。
咲羅の隣に背広姿の中年男性が座っていた。つまり彼女の席は、梅田とその男性に挟まれている。昼間の映画館を、一人で訪れる背広姿の中年男性は、さまざまな身辺を憶測される。それが平日であったら、リストラされたと推測される。リストラされた事実を家族に打ち明けられないまま、朝いつも通り背広をまとい、何食わぬ顔で出勤する。そしてそれが休日となると、家に居場所のない、気弱な男性と思ってしまう。休日出勤と偽り、しかたなく家を出る。・・・・・・そんな情景を想像してしまう。咲羅の隣に一人で座る中年男性からも、例外なくわびしさが立ちのぼっていた。
ちょっとした事件が起きたのは、映画が終盤にさしかかり、一番の絶叫ポイントとなったときである。恐怖のあまり、おもわず咲羅は隣の梅田に抱きついてしまった。直後、しまった!と思った。先ほど喫茶店で梅田が口にした、「別れるのは明日にして・・・・・・」というせりふから考えれば、まだ二人は恋人同士に違いない。しかし別れ話を切り出した以上、面目がなかった。
咲羅は気まずい気持ちで、彼の体から離れようとした。・・・・・・が、何かがおかしい。彼の服がやたらと厚みがあり、ごわっとしている。防虫剤のような刺激臭もある。嫌な予感がした。咲羅はおそるおそる顔を上げた。すると、知らない男性の顔があった。驚いた様子で咲羅を見ている。彼女は梅田と間違えて、反対側に座る男性に抱きついてしまったのだ。
苦手なホラー映画に引きずり込まれ、心身に戦慄が走っていた彼女は、軽い錯乱状態におちいった。そのためパニックとなり、幽霊でも見たかのような悲鳴を上げた。しかしそのとき、映画は恐怖の部分をすでに脱しており、館内に響いた悲鳴は咲羅の声だけだった。そのため何事かと、館内は一時騒然とした。
梅田とその男性は、取り乱す咲羅に唖然としていたが、すぐに気抜けしたように大笑いしだした。ホラー映画を上映中の緊迫した館内で、なんら恐怖でない場面で一人の女の悲鳴が響き、入れ替わり二人の男の大笑いをとどろかせた。彼らは迷惑な客として、周囲の白い視線を集めることとなったのだが、後味はなんだかすがすがしかった。映画終了後、その背広姿の男性の後姿は、女子高生に抱きつかれた喜びからか、もしくは久々に笑った心地よさからか、わびしさが薄れ、浮き立っているように見えた。
咲羅は梅田との別れを決心したものの、初めての恋人である梅田との思い出をたどると、胸が熱くなる。そのため、その背広の男性との出来事は、うら悲しい最後のデートを楽しいものへと変える、スパイスのような役割を果たした。
その後二人は、一度食べてみたかったパンケーキ店の行列に並んだり、美術館に行くなどして最後のデートを楽しんだ。
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ぽつりぽつりと、街が明かりをともし始めた夕暮れ、咲羅と梅田は駅のホームにたたずみ電車を待っていた。今日一日の楽しかった出来事は、すべて虚構だったのでは・・・・・・、と錯覚するほど、今の二人の隙間にあるのは、わびしさと、よそよそしさだけである。
電車の音が近づいてきた。そのとき梅田は、「あっ!」と言った。寝床についてから、やり残した宿題に気づいたような、そんな声である。
「そういえば、まだ俺んち来たことなかったよね。来る?」