マドンナブルー
 翌朝、咲羅の足は美術室に向かっていた。無性に安藤に会いたかった。一目彼の顔を見たら、もやもやとした気持ちが落ち着くような気がした。

 しかし、美術室に彼の姿はなかった。きらきらと光る海洋の広がりがあるだけだった。そして、早朝の美術室にはもう行かないと彼が話したのを思い出した。とりあえず、未完成である県展の作品制作に取りかかった。

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 咲羅は、ホームルームの始まる時間ぎりぎりに教室に入った。まだ担任教師は来ておらず、クラスメイトたちは自由に振舞っていた。数人の男子がバカ騒ぎをしている奥で、梅田は友人たちと談笑している。穏やかで、いつもの彼だった。咲羅は中腰で、こそこそと自分の席についた。教科書を取り出そうと、机の中に手を入れた。カサッと覚えのない紙片が指に触れた。

〝 昼休み屋上で待ってる ”

 とメモ用紙に書かれている。差出人はないが、それが梅田からのものであることは判然としていた。咲羅は梅田を見た。相変わらず、何事もなかったかのように談笑している。しかし、咲羅に面した彼の左側面は、明らかに彼女を意識し、緊張していた。

                     ****

 昼休み、咲羅が屋上に行くと、すでに梅田の姿があった。二人は向かい合うと、言葉に詰まった。ほぼ同時に、「ごめんね!」と言い合った。

「咲羅は悪くないよ。全部俺が悪いんだ」
「ううん。私があいまいな気持ちで陽一君と付き合ったりしたからよ」
「違うよ。俺のせいだよ」
「ううん。私のせいだってば」

 二人は自責し合い、ふたたび言葉に詰まった。沈黙の後、梅田が、

「血、出なかった?」

 咲羅は昨日の生々しい情景を思い出し、赤面した。コクンとうなずいた。

「よかった。あれで咲羅のバージン奪ってたら、俺、咲羅の奴隷になって一生かけて償おうと思ってた」

 梅田は、気まずさを隠すように明るく言った。

「咲羅の好きなやつって、安藤だろ?」
「うん・・・・・・」

 見透かされていると思い、すんなりとうなずいた。

「俺、本当はこんなこと言いたくないんだけど、安藤も咲羅に気があると思う。あいつの咲羅を見る目、やっぱムカつくよ。なんか大事なものを見るような目でさ」
「そうじゃないの」

 と、話をさえぎった。そして、つまらないことだと示すように笑った。

「先生は、私を応援してくれてるの。私が美大に行きたいことを知ってるし、母子家庭だってことも知ってるから。ただ、それだけのことなの」
「本当に咲羅はそれでいいの?」
「うん。いいの」

 それは本心だった。梅田は割り切れない表情だったが、やがて笑顔となった。

「俺は、咲羅の幸せを願ってるからな」

 彼の言葉は優しさがあふれていた。屈託のない態度だが、咲羅の目にはいぜんとして、幼少の梅田の幻影が、彼と重なって見えていた。

 咲羅は思い切ったように、

「陽一君」
「うん?」
「陽一君、本当は、お母さんを尊敬してるんじゃないかな・・・・・・」

 梅田は意表を突かれた顔をした。

「何で?」
「陽一君の努力がすごいからよ。夏休みに図書館に行ったとき、すごい集中力で勉強してたでしょ?私、陽一君の頭がいいのは、てっきり両親の頭がいいからだと思ってたの。でも陰であんなにがんばってたからだと知って、頭だ下がる思いだったわ。でもその姿勢は、お母さんのがんばる姿を見て身に付いたものなんじゃないかな。お母さんも、自分のがんばる姿を子供に見せたかったんじゃないかな・・・・・・」

 梅田は腑に落ちない表情で、考えているようだった。そして、突然笑い出した。

「つまり、俺はガキで甘ったれで、そのうえマザコンだってことだな」
「そういうつもりで言ったんじゃ・・・・・・」
「いいんだよ。たしかにそのとおりだ。しかし、咲羅には俺の嫌なところばかり見せてしまったな。いいところだけ見せるつもりだったのに」
「でも、私陽一君の欠点を知ってからのほうが、好きな気持ちが大きくなったよ。付き合い始めたころの陽一君、完璧すぎて逆に怖かったもん」
「そんなこと言ったって、安藤はもっと好きなんだろ?」

 咲羅は言葉に詰まった。伏目がちとなって言葉を探した。彼女の目は、困ったように潤んでいる。その様子を、梅田は調べるように見つめていた。咲羅の潤んだ目は、梅田に昨日のことを思い出させた。彼女の肌の柔らかさと、熱を帯びた滑らかな皮膚の感触が、唾液と共に舌に絡み付いてきた。

<たしかに昨日、咲羅は俺の体の下で熱くなってたんだ>

 念を押すように、梅田は胸の中でつぶやいた。

「ハハハッ。冗談だよ。咲羅の困った顔が見たかったんだ」
「もう!ひどい」

 咲羅はプイッとそっぽを向いた。梅田はこの瞬間を待っていたのか、それとも衝動的だったのか、彼は咲羅の手を引き自分のほうへ引き寄せた。次の瞬間には、咲羅は彼の腕の中におさまっていた。

「やめてやめて!もうこういうことしないで!」

 咲羅は抵抗した。きちんとみさかいをつけておきたかった。でないと、ふたたび彼に傾斜していきそうな自分を感じていた。

「しー、少し黙ってて」

 梅田は咲羅の耳元でささやいた。吐息が耳介にかかり、彼女の体はすくんだ。

「五分だけ、このままでいて。五分たったら、本当に友達に戻ろう・・・・・・」

 彼は、かすれた小さな声で言った。咲羅は、かたく縮めた体を彼にゆだねた。
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