マドンナブルー
咲羅が目を覚ますと、知らない天井が視界に入った。ベッドの上に体を横たえたまま、首を動かして自分の居所を確認しようとした。部屋の隅にある、スタンド型のライトの柔らかな明かりが、夜の室内を照らしている。整然とした簡素な部屋だ。家具は、テレビとローテーブルと、小型のシェルフが置いてあるだけである。所在地を確認できるものは、何も見当たらない。
もやがかかっていた意識が鮮明になってきた。そして、早坂たちに襲われたことと、安藤に助けられたことを思い出した。咲羅はあごを引いて、ブランケットの中の自分の体を確認した。乱暴された形跡はない。となると、ここは安藤の家と考えてよいだろう。
咲羅は起き上がり、ベッドを抜けた。寝起きのけだるさがあった。おそるおそるドアを開く。安藤の部屋にいるという高揚が起き始めた。ドアの向こうはまぶしく、咲羅は目をつぶった。
狭い台所があった。白い光が天井から煌々と降ってくるが、無人である。流し台の上に、開きっぱなしのパソコンと、飲みかけのコーヒーの入ったカップが置いてある。流し台をテーブル代わりに使っていたようで、簡易イスも置いてある。
突然、自分の家に女子生徒が舞い込んできたため、追いやられるようにして台所で過ごさざるをえなくなった。・・・・・・という空気が漂っていた。そのため、咲羅はすみやかにこの場から退去しようと考えた。しかし安藤に助けてもらったという手前もあり、黙って帰っては心苦しい。手紙でも残そうかと考えていると、玄関のドアが開いた。
安藤が、レジ袋を手に提げて入ってきた。彼は咲羅に気づくと、安堵を顔に広げた。
「よかった。目が覚めたんだね」
咲羅は緊張し、言葉がのどを通らない。
「大丈夫?痛いところとかない?」
「あっ、はい・・・・・・」
ようやく声が出た。
「あの、ありがとうございました。助けていただいて。先生こそ大丈夫でしたか?あっちに四人いたから・・・・・・」
「僕は大丈夫だよ」
「もしかして、柔道の技でやっつけたとか・・・・・・」
「はははっ、そんなことしないよ。なに、ちょっと脅かしてやっただけだよ」
安藤はニヤッとした。どこかやんちゃな感じで、こんな彼を咲羅は初めて見た。しかし、すぐに彼は真顔となる。
「あの男たちとは知り合い?」
咲羅は返答に困った。知り合いでないと言えば嘘になる。しかし、美奈子や及川の名も加えて長い説明をする気も起きない。そのため、「知らない人です」と口を出た。
「夜の一人歩きはもっと気をつけないと。バイトには、ちゃんと自転車で行ってる?」
父親が子をたしなめるように言う。咲羅は素直に「はい」と返した。
「あの道は人けもないし、夜は物騒なんだ。大通りを通ったほうがいいよ。吉岡は、とくにぼんやりしてるところがあるんだし」
ふたたび、咲羅は素直に返事した。そこで、会話が途切れた。沈黙となり、安藤の家で、彼と二人っきりでいるということに、急に緊張し始めた。
咲羅は、乾ききったのどから、退室の言葉を出そうとした。しかしそれより先に、安藤が口を開いた。
「腹へっただろ。今料理作るから待ってて。まあ料理と言ってもインスタントラーメンなんだけど。それ食ったら家まで送るよ」
彼は咲羅の返事を待たずして、レジ袋を持って流しへ向かった。手を洗い、慣れた様子でしたくを始めた。
咲羅は後ろのほうで、いそいそと夕食の準備をする安藤の後姿を眺めた。それから後ろを向き、先ほど彼女が寝ていた薄明るい部屋を見渡した。あるものを、咲羅は探していたのである。しかし、何一つ見当たらない。彼女は、安藤の他界した妻子の痕跡を探していたのだ。写真一枚確認できず、殺風景な空間の広がりがあるだけだった。
咲羅は、ふたたび安藤を見た。何のわだかまりもない様子で、もくもくと料理をしている。彼の背中はすぐ近くにある。しかし、決して触れることができないよう、見えない結界が張られているような気がした。
安藤に触れたい、という想いが、衝動のように咲羅の中で突きあがった。しかし、彼の中に、自分が入り込める隙間などないことを、咲羅は充分わかっていた。そのためもどかしく、悲しく、寂しく、とりとめのない気持ちに彼女をさせた。
「先生・・・・・・」
咲羅は、か細い声で安藤を呼んだ。しかしその声は彼に届かず、彼は冷蔵庫から食材を取り出していた。
ふたたび咲羅は「先生」と呼んだ。安藤は、両手一杯に食材を抱え込んでおり、咲羅のほうを振り向くことなく、「うん?」と生返事をしただけだった。
「先生!」
咲羅はほとんど叫んでいた。安藤は今初めて気づいたかのように、「何だ?」と言って咲羅のほうを向いた。
ドサドサッと音を立てて、彼の両手から食材がこぼれ落ちた。キャベツやたまねぎが、彼の足の甲を打ちつけた。しかし彼はまったく気づかない様子で、棒立ちとなって咲羅を見ていた。
安藤と向き合った咲羅は、全裸だった。
もやがかかっていた意識が鮮明になってきた。そして、早坂たちに襲われたことと、安藤に助けられたことを思い出した。咲羅はあごを引いて、ブランケットの中の自分の体を確認した。乱暴された形跡はない。となると、ここは安藤の家と考えてよいだろう。
咲羅は起き上がり、ベッドを抜けた。寝起きのけだるさがあった。おそるおそるドアを開く。安藤の部屋にいるという高揚が起き始めた。ドアの向こうはまぶしく、咲羅は目をつぶった。
狭い台所があった。白い光が天井から煌々と降ってくるが、無人である。流し台の上に、開きっぱなしのパソコンと、飲みかけのコーヒーの入ったカップが置いてある。流し台をテーブル代わりに使っていたようで、簡易イスも置いてある。
突然、自分の家に女子生徒が舞い込んできたため、追いやられるようにして台所で過ごさざるをえなくなった。・・・・・・という空気が漂っていた。そのため、咲羅はすみやかにこの場から退去しようと考えた。しかし安藤に助けてもらったという手前もあり、黙って帰っては心苦しい。手紙でも残そうかと考えていると、玄関のドアが開いた。
安藤が、レジ袋を手に提げて入ってきた。彼は咲羅に気づくと、安堵を顔に広げた。
「よかった。目が覚めたんだね」
咲羅は緊張し、言葉がのどを通らない。
「大丈夫?痛いところとかない?」
「あっ、はい・・・・・・」
ようやく声が出た。
「あの、ありがとうございました。助けていただいて。先生こそ大丈夫でしたか?あっちに四人いたから・・・・・・」
「僕は大丈夫だよ」
「もしかして、柔道の技でやっつけたとか・・・・・・」
「はははっ、そんなことしないよ。なに、ちょっと脅かしてやっただけだよ」
安藤はニヤッとした。どこかやんちゃな感じで、こんな彼を咲羅は初めて見た。しかし、すぐに彼は真顔となる。
「あの男たちとは知り合い?」
咲羅は返答に困った。知り合いでないと言えば嘘になる。しかし、美奈子や及川の名も加えて長い説明をする気も起きない。そのため、「知らない人です」と口を出た。
「夜の一人歩きはもっと気をつけないと。バイトには、ちゃんと自転車で行ってる?」
父親が子をたしなめるように言う。咲羅は素直に「はい」と返した。
「あの道は人けもないし、夜は物騒なんだ。大通りを通ったほうがいいよ。吉岡は、とくにぼんやりしてるところがあるんだし」
ふたたび、咲羅は素直に返事した。そこで、会話が途切れた。沈黙となり、安藤の家で、彼と二人っきりでいるということに、急に緊張し始めた。
咲羅は、乾ききったのどから、退室の言葉を出そうとした。しかしそれより先に、安藤が口を開いた。
「腹へっただろ。今料理作るから待ってて。まあ料理と言ってもインスタントラーメンなんだけど。それ食ったら家まで送るよ」
彼は咲羅の返事を待たずして、レジ袋を持って流しへ向かった。手を洗い、慣れた様子でしたくを始めた。
咲羅は後ろのほうで、いそいそと夕食の準備をする安藤の後姿を眺めた。それから後ろを向き、先ほど彼女が寝ていた薄明るい部屋を見渡した。あるものを、咲羅は探していたのである。しかし、何一つ見当たらない。彼女は、安藤の他界した妻子の痕跡を探していたのだ。写真一枚確認できず、殺風景な空間の広がりがあるだけだった。
咲羅は、ふたたび安藤を見た。何のわだかまりもない様子で、もくもくと料理をしている。彼の背中はすぐ近くにある。しかし、決して触れることができないよう、見えない結界が張られているような気がした。
安藤に触れたい、という想いが、衝動のように咲羅の中で突きあがった。しかし、彼の中に、自分が入り込める隙間などないことを、咲羅は充分わかっていた。そのためもどかしく、悲しく、寂しく、とりとめのない気持ちに彼女をさせた。
「先生・・・・・・」
咲羅は、か細い声で安藤を呼んだ。しかしその声は彼に届かず、彼は冷蔵庫から食材を取り出していた。
ふたたび咲羅は「先生」と呼んだ。安藤は、両手一杯に食材を抱え込んでおり、咲羅のほうを振り向くことなく、「うん?」と生返事をしただけだった。
「先生!」
咲羅はほとんど叫んでいた。安藤は今初めて気づいたかのように、「何だ?」と言って咲羅のほうを向いた。
ドサドサッと音を立てて、彼の両手から食材がこぼれ落ちた。キャベツやたまねぎが、彼の足の甲を打ちつけた。しかし彼はまったく気づかない様子で、棒立ちとなって咲羅を見ていた。
安藤と向き合った咲羅は、全裸だった。