マドンナブルー
「先生、私を描いてください・・・・・・」

 一糸まとわぬ姿の咲羅は、恥らうように、両腕を胸のあたりで交差させていた。棒立ちとなって咲羅と向き合っている安藤の耳に、彼女の言葉は入らなかった。彼女はふたたび、やや語調を強め、

「先生、私を描いてください。私を、先生のモデルにしてください」

 今度の咲羅の声は、安藤に届いた。彼はハッとしたように、反射的に承諾の言葉を口にした。しかし、すぐに後悔が起こった。美術教師である安藤にとって、女の裸は見慣れた存在だった。美的欲求を刺激するモチーフにすぎず、私欲につながるものではない。唯一彼を惑わせた女性は、妻の由利子だけだった。そのため彼は、たとえ裸の生徒と向かい合っても、動揺しない心積もりでいた。しかし、裸の咲羅を前にした彼は、動転するほど戸惑った。もちろんそれは、生徒の奇行とも取れる行動のせいでもある。しかしそれだけではなく、彼は何か体の底から奮い立つような、全身のしびれを感じた。それは、想定外のことだった。

 今、彼の前に咲羅はいない。薄明るい部屋で、彼が来るのを待っている。本能的に彼は、咲羅と向き合うのを渋る気持ちとなった。しかし彼は、画材道具を持って、咲羅の待つ部屋へと向かって行った。彼女の申し出を拒否することは、彼女の羞恥を救いがたいものにしてしまう、・・・・・・と感じたからである。

 安藤が部屋に入ると、咲羅はベッドに横たわっていた。ベッドのそばの窓にかかるカーテンの色が、濃い青である。それを背景に横たわる咲羅は、まるで群青色の海の中に、白く浮いているようだった。その白い姿態に、安藤はめまいを感じた。

 安藤の気配がし、咲羅は体がこわばった。彼女は安藤に背を向け、体を胎児のように丸めていた。彼女は、両肘をベッドについて、顔だけをそろそろと安藤へ向けた。彼は床にあぐらをかき、デッサンの準備をしていた。その彼と、目が合った。咲羅は条件反射のように、無意識に笑っていた。舌をのぞかせたような、茶目っ気のある、いたずらっぽい笑いである。

 安藤は、咲羅のしぐさに救われたような心境だった。彼は、何かほっとしたように緊張が緩んだ。

「こんなことして恥ずかしくないのか。やめるんなら今だぞ」

 咲羅はくすくすと笑った。

「先生は私の裸を見たって、いやらしい気持ち起こさないでしょ?先生のデッサンたくさん見たから知ってます。だから、ぜんぜん平気です」
「そんなの分からないじゃないか。僕だって男なんだぞ」

 楚々としたイメージだった、咲羅の急な大胆不敵な行動に、安藤は困惑していた。自分は何か挑まれているのかと思い当たり、ではその理由は何なのかと、考えあぐんだ。そして、一つの可能性を導き出した。・・・・・・しかし、まさか、と思う。それを確認しようと言葉にした。

「どうして、こんなことしようと思ったんだ?」

 それは、咲羅にもよく分からなかった。安藤の気持ちに入り込めない寂しさや、もどかしさが膨らんで、ほとんど無意識に起こした行動だった。男を二、三人知っているかのような強気な態度だった咲羅の顔に、一瞬臆面がよぎった。しかし、すぐにふたたび不敵な笑みをたたえた。

「先生のデッサンがすばらしいからです。私もあんなふうに描いてほしいと思いました。そして将来、自分の孫に見せるんです。見て、おばあちゃん昔はこんなに綺麗だったのよって。だから、おもいきりステキに描いてくださいね」

 自分の一番美しい時期を、なんらかの形で残したいと思う女心は、まあ分からなくもない。安藤は、咲羅が愛情のようなものを自分に抱いているのでは、と恐れたのである。こんな状況のとき、私情が絡むと厄介事に発展しかねない。そのため、彼は安堵した。・・・・・・が、彼女の動機を自分の見当違いとして片付けてしまうことに、いくばくのわびしさが、このとき彼の中で動いた。その気持ちを払拭しようとするように、彼は真剣に咲羅と向き合った。

 安藤は、咲羅にポーズを指示していく。彼女の魅力が引き立つものを、と思考錯誤したが、とどのつまり飾らないのが一番であることにたどり着き、無造作に寝そべる姿に落ち着いた。

 間接照明の弱く、柔らかな明かりが、咲羅の体を浮き上がらせた。彼女の体は、成熟していた。あどけなさが顕著に残る、かわいらしい顔と、成熟した体とのアンバランスな対比が、奇妙な魅力をかもし出した。その姿態に、安藤はゾッとするほどの艶麗さを感じたのである。それは、美的欲求をかき立てる一方で、彼の私情も入り込んだ。その雑念を追い払おうとするあまり、彼は切り込むように、挑むように、鉛筆を動かし続けた。

 安藤が指示したポーズで、咲羅の顔は安藤のほうを向いていた。しかし、彼の顔に視線を当てられなかった。だが、全身に彼を感じた。そして、彼の中も今、自分で満たされているのだということを、むき出しとなった皮膚に触れる彼の気配から察した。それが強い喜びとなり、咲羅は、恍惚の海へとおぼれていった。
< 52 / 59 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop