マドンナブルー
 ふわりとした暖かみが肌に覆われるのを感じ、咲羅はハッとした。

 ベッドのかたわらに、安藤が立っていた。スケッチブックから切り離した画用紙を片手に持ち、それに目を落としている。出来具合を確かめているようだ。しかし、そうすることで、咲羅に視線を当てるのを避けていた。

「なかなかよいものが描けたよ。君の、未来の孫の驚く顔が目に浮かぶよ」

 安藤はそう言うと、画用紙を咲羅の体の横に置いた。そして、すぐに彼は咲羅に背を向けた。

「風邪を引くから、早く服を着なさい」

 彼は背を向けたまま言い、そのまま部屋から出て行った。

                     ****

 安藤は、白く明るい、無骨な空間に安堵した。床に散らばる食品が目に入り、そう言えばと、先ほど料理を作ろうとしていたことを思い出した。彼はそれらをひろい上げた。

 薄明るい部屋に、一人取り残された咲羅は、先ほど安藤がかけた毛布にくるまり、ベッドの上にちょこんと座っていた。部屋を見回し、気抜けした心境におちいった。いたるところに性の残骸が、粘るようにこびりついている。それらを無視して、安藤は去ってしまった・・・・・・。

 咲羅は毛布で体を覆ったまま、そろそろとベッドから抜け出した。毛布を床にひきずらせながら戸口まで来て、安藤をうかがった。彼は、料理をしていた。まな板の上に、包丁の刃の当たる軽快な音を鳴らしている。それと連動して、彼の大きな肩甲骨の上下する様子が、白いトレーナーごしに目に入った。彼の背は、自信に満ちて、勝ち誇っているようだった。このままでは、すべてもみ消されてしまう。二人の間に、確かに存在した通じ合うものも、依然として部屋にこびりつく、粘った性のかけらも・・・・・・。

 咲羅は駆け出していた。安藤の背中を目がけて走り、彼に背後から抱きついた。とたんに安藤の体はこわばった。駆けている最中、咲羅の肌を覆っていた毛布が床に落ちた。そのため彼女は、裸の肉体を安藤に押し付ける形となった。

「私は安藤先生が好き。どうしようもないほど好き。たぶん、初めて会ったときから好き。私、先生の一番になれなくていいの。でもお願い!私を好きな気持ちが少しでもあるのなら、こっちを向いて・・・・・・!」

 沈黙が流れる。なべに入った湯の、ふつふつと沸き始める音だけが、二人の間に流れた。安藤は、しばらく宙にとどまっていた包丁を、まな板の上に置いた。そして両手を、自分のお腹にある咲羅の手に持っていった。彼女の手は、抵抗することなく、簡単にほどけた。

「包丁を使ってるときに、危ないじゃないか」

 彼はそう言いながら、咲羅のほうに振り返った。説教じみた口調である。そのため彼の向き直った行為が、咲羅の要求の答えとは判断しがたい。

 咲羅を前にした安藤は、ふたたび固まった。白く明るい光に照らされ、現実味を帯びた、咲羅の裸体が生々しくあった。二人は、かろうじて触れ合わない距離を保っていた。安藤のすぐ後ろは調理台である。しかし彼の左右は空間で、抜け出すことができた。しかし彼は逃げなかった。金縛りにあったように、動くことができなかったのだ。二人は狭い囲いの中に閉じ込められたように、向かい合って立ちすくんでいた。

 だいぶ時間がたったように感じられた。その間、なべの湯の煮え立つ音だけが流れていた。安藤は、ふと気づいたように、

「ほっぺが腫れてる」

 そう言い、指先で咲羅の頬に触れた。ゴムのような感触が、咲羅の顔を走った。

「さっきの男たちに?」

 こくんと咲羅はうなずいた。

「大丈夫?痛くない?」

 ふたたび咲羅はうなずく。彼女の目は、濡れて光っていた。その目で、じっと安藤の目を見つめていた。彼の目はあいまいで、もやがかかっていた。咲羅の頬にある安藤の指先が、ゆっくりとあごのあたりまで滑ってきた。そして、ふたたび頬から同じ動作を繰り返した。安藤は、自分の置かれた状況に動揺するあまり、無意識に指を動かしていたのだ。

 早坂にぶたれた頬の痛みを、咲羅はすっかり忘れていた。安藤の指先が頬をこするたび、チリチリとした痛みがよみがえった。その感覚は全身に波及し、咲羅の体は痛いほど、熱く燃え始めた。そして、視線の先にある安藤の目にも、火がともるのを、彼女は見た。

 咲羅は目をつぶり、安藤を待った。
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