マドンナブルー
 三月となった。ぽかぽかと春めいた日が増えた。今日は終業式である。全校生徒は体育館に整列していた。むだに長い校長の話。ざわつく生徒たち。それを叱責する体育教師の怒声・・・・・・。すべて、いつもと同じ光景である。

 咲羅の目は、安藤を探し当てた。彼のことなら、すぐに見つけられる。彼は、かっちりとしたスーツを着ていた。いつもラフな服装の彼は、終業式や始業式のような、かしこまったときにだけスーツを着る。何か吹っ切れたような、すがすがしい表情をしており、それを恨めしいと思う反面、とてつもなく素敵だと咲羅は感じ、彼を、懐かしむ気持ちとなった。

 式は、退職する教師の紹介となった。生徒たちが、突然ざわつき出した。定年や結婚で退職する教師の列に、安藤の姿があったのだ。「なんで安藤先生が・・・・・・」という言葉が、あちこちで沸き起こった。

 咲羅に動揺はなかった。こうなる予感が、何となくあったのだ。というのは、今日の彼の、吹っ切れたようなすがすがしさは、彼が一歩を踏み出した証であると、うすうす感じていたのだ。

 壇上で列に並んでいる退職者たちが、順番にマイクの前に立ち、挨拶を述べていく。そして、安藤の番となった。彼は、マイクの高さを調節している。その間、生徒たちは固唾を飲んで待った。懇切丁寧であり、純朴な人柄である彼を慕う生徒の数は、事実、大勢いたのである。

 およそ一年前、咲羅は同じ場所で、安藤を初めて見たときのことを思い出していた。そのときは、彼に父親を感じてときめいた。そして今は、一人の男性を意識して、体の底から彼に焦がれていた。

 安藤が話し始めた。

「まず皆さんに、私がこの高校に赴任してきて、たった一年で退職する勝手をお詫びしたいと思います。一年前、この場所に立った私は、生きる希望をなくしていました。間もなく、未曾有の大震災から四年がたちますね。皆さんも、悲しい思いをたくさんしたと思います。私も、あの震災で、妻と当時二歳だった娘を亡くしました・・・・・・」

 彼は想いが込み上げ、一瞬言葉が詰まった。生徒たちからざわめきが起こる。彼は踏みこたえるようにして、話を続けた。

「・・・・・・震災から一歩も動けないまま、私はこの高校に赴任してきました。しかし、多くの困難を乗り越えようとする、皆さんの若くたくましい姿を見て、私はたくさんの勇気をもらいました・・・・・・」

 安藤の目は、およそ千人の生徒の群れから、咲羅を探し当てていた。咲羅は泣いていた。しかし、そんな彼女をいぶかる者はいない。涙を流す生徒の姿が、あちこちに見受けられたからである。この街に生きて、あの震災で傷つかなかった者など、誰一人としていないのだ。

「・・・・・・皆さんから勇気をもらったおかげで、私は一歩を踏み出すことができました。私は自分の夢を追おうと決意し、パリにある美術学校への入学を志願しました。そして、許可されました。そういうわけで、私も来月から学生となります。言葉のことや文化の違いなど、不安は尽きませんが、精一杯がんばりますので、皆さんも自分の目標に向かい、まい進していってください。最後に、短い間でしたが、本当にありがとうございました」

 深々とお辞儀をして、彼は挨拶を終えた。温かい拍手が、体育館にあふれた。「先生がんばれ!」と彼を激励する言葉が飛び交う中、安藤はいくぶん気恥ずかしそうに壇上をおり、生徒の列に沿って元の場所へと戻った。

 咲羅は、視界の涙の層を指でぬぐうと、安藤と目が合った。教師の列にたたずむ彼は、千人の生徒の中にうずもれた咲羅を、じっと見つめていた。やがて、生真面目な彼の表情がフッとゆるんだ。咲羅にしか分からないように、彼女にほほ笑みかけているようだった。咲羅もそれに応えるように、彼に笑顔を向けた。

 次の瞬間、周りの風物がすべて消え、咲羅と安藤は、広大な空間に二人きりとなった。そして二人の間に、懐郷のような揺るがないたしかな想いが、さざ波のように静かに打ち寄せるのを、感じた。

 ふたたび咲羅は、見知らぬ土地に一人取り残されたように、生徒の群れの中に身を置いていた。式は、生活指導の教師による、春季休暇中の心がけについての説明となっていた。

 咲羅は安藤を見た。しかし、二人の視線が出合うことは、もうなかった。
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