マドンナブルー
拝啓 桜のつぼみも膨らみ、今年もまた、桜の季節がやってきますね。吉岡と出会って、もう一年が経つのだということを、桜のつぼみに教えられ、感慨にふけっています。
僕が日本を去る前に、君に感謝の気持ちを伝えなければと思い、ペンを取りました。吉岡が僕の部屋にいた、あの冬の日、君は僕に、「死なないで」と言いましたね。四年前に妻子を亡くしてからというもの、生きる希望を失っていた僕は、君に胸中を見透かされていたことを知り、戸惑いました。一年間の病休をとり、ヨーロッパを放浪していたという話を、以前話したことがありましたね。僕は、自分の命を絶つ目的で向かいました。妻が、いつかは住んでみたいと夢見て、行くことすら叶わなかったイタリアの田舎町を、スケッチブックと鉛筆を持って、さまよい続けました。サン・ウ“ィターレ聖堂の、息を飲むモザイクの美しさ。ひたすら絶景を求めてたどりついた、カプリ島の青の洞窟の、小宇宙のような神秘的な美しさ・・・・・・。それらの土産話を持って、僕は妻と娘のもとへ行くつもりでした。しかし、美しいものに触れて感銘を受ければ受けるほど、僕は死が怖くなりました。そんな臆病な自分を恥じました。吉岡と出会ったのは、そんなときのことです。家庭環境や逆境をものともせず、目標に向かい、けな気に努力している君の姿が、とてもまぶしかった。同時に、君を守りたい・・・・・・、そう思うようになったのです。早朝の美術室で、君の小さな背中を抱きしめたい、という衝動に駆られたのは、一度や二度のことではありません。僕は知らぬ間に、それもかなり早い時期にはすでに、君に恋をしていたのだと思います。しかし、年甲斐もなく、そんな想いを若い君に抱いたことを戸惑うのと同時に、妻への裏切りに思え、苦悩しました。しかし、自分にまだ誰かを愛する余力があるのを知り、それが、僕の生きる一筋の希望となったのです。
あの冬の日、吉岡も僕と同じ気持ちであると知り、君を受け入れようと思いました。吉岡が十七歳であること。僕たちに十八歳の年齢差があること。君が生徒であること。あのとき、それらのしがらみはすべて消えていました。僕は吉岡が好きだ。吉岡も僕が好きだ。そのお互いの想いだけで、社会の常識にそむく理由に充分なりえるのだと、本気で思いました。そんな僕を引き止めたものは、社会の常識でも妻でもない。君の、お母さんの存在です。僕も、子を持つ親の気持ちが分かる身です。僕のような未熟な人間が、君と一線を越えることに、ためらう気持ちが起きたのです。女手一つで君を育て上げたお母さんの苦労を思いやると、やはり越えてはいけない線だと感じました。
あのとき、吉岡にはずいぶんつらい思いをさせましたね。本当にごめんね。冷静に君をつっぱねていた僕の心の中は、気が狂いそうなほど、体の底から、君を自分の腕の中に抱きたかった。その強い気持ちが、僕に生きる喜びを思い出させてくれたのです。そして、ようやく妻と娘の死を見つめることができました。生前、妻は身寄りのない身でした。そのため彼女たちを悼んであげられるのは僕しかいないのに、彼女たちの存在を心の隅へと追いやってきました。ひどいですよね。本当にかわいそうなことをしてきました。妻と娘への償いのためにも、僕は精一杯生きよう、そう決意したのです。
こんな晴れ晴れとした気持ちになれたのは、吉岡、君のおかげです。本当にありがとう。吉岡のことは、決して忘れません。君の幸せを、心から祈っています。 敬具
平成二十七年三月二十四日 安藤勝則
吉岡咲羅様
追伸 美大受験がんばって!吉岡ならきっと大丈夫。僕が保証します。
咲羅は手紙を順調に読み進めてゆき、中盤となるころ、がくんと速度が落ちた。あふれる涙をかきのけながら、ようやく読み終えた。
咲羅は、安藤の門出を心から喜ぶ気持ちとなっていた。しかし感動と同時に、胸にひっかかるものがあった。はたして、この手紙は決別を意味しているのだろうか。自分は、彼が立ち直る過程での重要人物にすぎないのだろうか。それとも、未来でのつながりをにおわすものと、捉えてもよいのだろうか・・・・・・。いずれにせよ、決して手の届かない存在と思っていた彼が、自分を好きだったということ。たしかに彼と、心がつながっていたということ。それらのことが、咲羅の中で、宝石のようにキラキラと輝いた。