鉄仮面女史の微笑みと涙
決心
海外事業部に異動になって1ヶ月たった
出張も何回かこなし、やっと仕事にも慣れてきた
夫との関係はあれからますます悪化し、ほとんど家庭内別居のようになっている
夕食もあれから何回か捨てられ、私はもう夕食を作るのを止めた
リビングに腕時計が置かれることもあれからなくなった
掃除や洗濯だけは私がしている状態だが、もともとなかった会話もほぼなくなった
でもその方が私にとっては心に余裕が生まれた
心に余裕があるからか、木下さんから


「加納課長、最近ちょっと笑顔になってますよ?自覚あります?」


と言われたことがある
でも、どこかで笑っちゃいけないと思う自分がいて、その度に俯いて下唇を噛んでいた
このまま夫婦でいてもしょうがないとは思ってはいる
あれから何回、柳沢先生の名刺とにらめっこしたか分からない
しかし、踏ん切りがつかず電話が出来ないでいた



そんなある日、相川課長と一緒に取引先と打ち合わせをし、18時頃には会社に戻れそうだった


「今日は早く帰れるかな?」
「そうですね。でも打ち合わせの結果、まとめないといけませんね」
「そうだった」


私達は足早に会社に戻っていた
あと少しで会社に着くころ、前を見ると見慣れた顔があった
夫だ
向こうはまだ気付いていない
でもよく見ると誰かと一緒に歩いている
誰だろうと思っていると、知らない女性だった
しかもその女性は夫の腕に自分の腕を絡ませていて、夫は私に見せたこともないような笑顔で笑っていた
思わず立ち尽くすと、相川課長が気付いて私に声をかけた


「加納課長?どうかした?」


相川課長の問いかけに答えることが出来ない
私はずっと夫と知らない女性を見ていた
相川課長も私が見ている方を見る
そして夫達は私達の視界から見えなくなった


「加納課長?あの人達知ってるの?」
「1人だけは……」
「女性の方?友達だった?」
「いえ、夫でした」
「え?」
「さっきの男の人、私の夫なんです」


私の言葉に相川課長は絶句した
そりゃそうだろう
私の夫ですと言った男が、他の女性と仲良く腕を組んで歩いて行ったのだ
私はそのまま俯いて下唇を噛み締めて、両手が震えるぐらい強く握りしめた


「……長。加納課長?聞いてる?」


ハッと気付くと相川課長が優しくにっこり笑っていた


「すいません。聞いてませんでした」
「会社に帰ろう?」
「はい……」


私は相川課長の後をトボトボと歩いた
相川課長も私の歩く速度に合わせてゆっくりと歩いてくれた


「ただいま戻りました」
「お疲れ。相川課長、加納課長。どうだった?相手の反応は」
「上々でしたよ。ちょっと今からまとめますね」
「ああ。加納課長、どうした?顔色真っ青だぞ?大丈夫か?」


海外事業部のメンバー全員が私を心配そうに見ている


「部長、加納課長体調悪いみたいで、なんだったら後は俺がしますから、加納課長にはちょっと休んでもらってていいですか?」
「何かあったのか?」
「いや、それは……」


相川課長の歯切れの悪い答え
何も喋ろうとしない私
いつもと違う2人に何も気付かない皆川部長ではない
皆川部長は私の肩に手をポンと置いて言った


「加納課長、もし今君が辛い状況にあるなら、自分から動きなさい。そうしないと何も変わらないよ?」
「部長……?」
「それは君にとって怖いことかもしれない。だったら、誰かの力を借りなさい」


皆川部長はそう言うと、私の背中をポンと叩いて相川課長のデスクへ向かい、取引先との打ち合わせの結果を2人で話し始めた


自分から動かないと、何も変わらない
でも、どうしたら?
ふと、さっきの夫と女性の姿を思い出す
あの楽しそうに笑う夫の笑顔
そして、今までの夫との結婚生活……
もう限界だった
私は財布にしまっていた柳沢先生の名刺を取り出し、打ち合わせ室に入って電話をかけた


『はい、柳沢弁護士事務所です』
「あ、あの……」
『はい?』
「F社の海外事業部の加納と申します」
『ああ、この世の不幸を全部背負った人か。どうした?もしかして、本当に離婚したくなったか?』
「はい」
『えっ?』


私は大きく息を吸い込んで言った


「夫と離婚したいと思っています。相談に乗って欲しいのですが」
『……分かりました。今どこだ?」
「会社です」
『じゃ、うちの事務所と近いな。名刺に住所と地図書いてるだろ?それで事務所まで来れるか?』
「はい。多分分かると思います。分からなかったらまた連絡します」
『分かった。気を付けて来るんだぞ』
「はい。じゃ、すぐに伺います」


電話を切って、大きく息を吐いた
そして打ち合わせ室を出ると、皆川部長がにっこりと笑っていた


「皆川部長……」
「いいよ、行って来い」
「でも、まだ仕事が」
「また明日頑張ればいい」
「……はい。それじゃ、お先に失礼します」


私は急いで荷物をまとめると、びっくりしている他のメンバーに頭を下げた
そして部屋を出ようとした時、部長が言った


「加納課長、僕も出来る限り力になるから。それを忘れないでくれ」
「部長……」
「分かった?」
「はい」
「じゃ、今日はお疲れ様」
「お疲れ様でした」


皆川部長が何故背中を押してくれたのかは分からなかったが、今の私には何よりも心強かった
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