揺蕩うもの
「すいません」
 着替えを済まして戻ると、奴がじっとシャトルシェフを見つめていた。
 たぶん、クッカーの上にあった鍋がどこに消えたのか、突然現れたシャトルシェフが何者なのか、捜査しているのだろう。なにしろ、刑事だからな。
「こちらこそ、すいません、お邪魔ばかりして」
 そういう奴は、本当に恐縮しているようだった。
「あと十分したら鍋を出してルーを入れて・・・・・・」
 そこまで言ってから、俺はご飯を炊くのを忘れている事に気付いた。
「しまった、ご飯・・・・・・」
 俺は叫ぶと流しに走り寄り、超高速で無洗米を四合計り、水加減も適当、水を吸い込ませる時間も省いて高速炊飯のスイッチを押した。
 客を食事に誘っておいて、痛恨のミスだ。
「すいません、ご飯が炊けたらすぐに食事になりますから。明日、早くないですよね?」
 俺は心配になって尋ねた。
「大丈夫です。今日までは、捜査協力で他県に出向いていたので朝早かったのですが、明日からは署に出勤なので」
 それから俺と奴は取り留めのないことを話し続けた。何しろ、共通の話題がないのだから仕方がない。
 炊飯器に表示される炊き上げ時間を確認しながら、俺は鍋をシャトルシェフから取り出し、ルーを割り入れた。いつもはシャトルシェフに入れる前に牛乳を入れるのだが、何しろ今日は何かと番狂わせばかりで、しょうがないのでルーを入れてから牛乳を入れて味を調整した。
「さや、食事だぞ!」
 俺が声をかけると、まるで重さも気配も感じさせない静かな動きでさやが奥の部屋から出てきた。
 いつも使う大皿は二枚しかないので、さやと奴の分を大皿に盛り、俺はどんぶりにご飯を入れてカレーをかけた。
「いただきます」
 俺が言うと、宮部が続き、最後にさやが囁くように言って夕飯が始まった。
「いつもと味が違うね」
 一口食べるなり、さやが言った。
「わるい、牛乳を入れるのが遅くなった。でも、悪くないだろ?」
「おいしいです。お肉も柔らかいです」
 俺の言葉を継ぐように、奴が嬉しそうに言った。
 まあ、褒めてもらえるのは嬉しいが、なんか奴に喜ばれても正直複雑だ。
「よかったら、おかわりしてください。ご飯は四合炊いてありますから」
「ありがとうございます」
 奴は嬉しそうに言うと、それは見事な食べっぷりだった。
 その隣でさやは、黙々とカレーを食べ続けた。
「そうだ、さや、宮部さんにメールの使い方教えてもらったらどうだ?」
 俺が沈黙を破ると、さやは不思議そうに俺の事を見つめた。
「メール?」
 それは、『何のために?』というのではなく、メールとは何かと問うような問いかけだった。
「そうですね、紗綾樺さんが嫌でなければ、お教えしますよ。メールが使えると連絡を取るのも便利になりますから」
 カレーで腹が膨れたせいか、奴はがぜん元気になってきた。
「宮部さんだって、仕事中は電話に出られないだろうし、さやがメールを使えるようになった方がいいと思うぞ」
 実際、何度も挑戦しては使うまでに至らなかったのだが、教える人間が変われば結果も変わってくるかもという期待あっての事だった。
 しばらく返事をしないままカレーを食べていたさやだったが、奴の熱い視線に耐えかねたのか、とうとう『いいよ』と返事をした。
 ささやかなディナーが終わると、奴は俺が止めるのも聞かずに皿洗いをしてから帰っていった。
 色のない世界に入り込んでしまったさやは、『さよなら』も『おやすみなさい』もろくに言わずに奥の部屋に引きこもってしまい、俺は初めて奴に対して申し訳ないという気になったが、奴は気にした様子もなかっただけでなく『紗綾樺さんが元気でよかったです』と嬉しそうに言ってくれた。
 俺はずっと、どんな男だって色のない世界に入り込んださやを見たら、千年の恋も一瞬で冷めてしまうだろうと思っていたが、奴にはそんなさやも愛しく思えるようだった。
 もしかしたら、この男を逃したら、さやを任せられる男は他に出てこないかもしれないと、俺は奴に対する考えを改めないといけないのではないかと、心底考えさせられた。

☆☆☆

 紗綾樺さんの部屋を後にすると、一気に夜の寒さを感じ寂しさが心の中を吹き荒れた。
 食事が終わるとすぐに紗綾樺さんは奥の部屋に引きこもってしまったので、最後に顔を見ることが出来なかったけど、自分としては満足の行く時間だった。
 もちろん、心からの愛の告白が『友達』認定で終わってしまったことは残念だったけれど、それでも今まで見たいに自分から愛の告白もしないで、宗嗣さんの前で恋人面するのよりは、ちゃんと告白して、正式にお友達になった事できっちりスタートラインに立てたことは間違いない。今まで見たいな、スタートライン手前から裏道を通ってゴール手前にでたような引け目を感じる必要はなくなったわけだし、宗嗣さんのカレーも美味しかった。
 待てよ、最後のはおかしいな。紗綾樺さんの手料理なら嬉しいはありだけど、宗嗣さんの手料理が美味しいで喜んでるのは変か。
 でも、留守中に上がり込んだのに、温かく迎えてくれて、食事までご馳走してくれた。交際だって、すぐに認めてくれたし、かなり寛大なお兄さんだよな。
 宗嗣さんの話だと、ご両親はなくなっているから、結婚となると、宗嗣さんの許可が抱けだし、そうなると今からいい関係を保つことは大切だ。
 そこまで考えてから、僕は自分の考えがどんどんエスカレートしているのに気付いた。
 今日、ふりだしに戻って友達になったばかりなのに、結婚だなんて。あー、あの先輩三人組に完全に毒されてるな。何が恋せよ青年、でも早まるな結婚だよ。結婚なんて、まだ先の先の先。友達から始めると、友達以上恋人未満、それから、恋人、結婚なんてその次じゃないか。
 でも、紗綾樺さんが相手なら、何年かかってもいい。僕はいつまでも待てる。
 さっきまで寒かった心が温かくなり、僕は駅への道を早足で進んでいった。
< 32 / 76 >

この作品をシェア

pagetop