ウラオモテ
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2010年7月21日、翌22日

 面談室に呼び出された私は、カウンセラーと担任の大島先生と、テーブルを挟んで向き合っている。一対二の状況。
「ええと、私は淡水魚で、あの人たちは海の魚なんです。正直なところ住んでる世界が違うっていうか」
 ソファに身を預けながら、カウンセラーのおじさんの目を見据える。薄い白髪の小さなおじさん。まさに人畜無害なカウンセラーって雰囲気。作り物。
「そうか、なるほど。でも赤木さんもみんなも魚ってところは同じなんだね」
 そう反論してくるのか。比喩がおかしかったみたいだ。私とあの人たちは同種の魚なんかじゃないって言いたかったのに。
「ならそれはそれとして、赤木さんとみんなとで魚っていうカテゴリーで共存できるんじゃないかな?」
 にっこりと笑ってみせるおじさん。けれど、目が笑っていない。小さくて細い目の奥が嫌に私を見つめている。笑っているように見えるけれど、私の次の言葉を待ち受けているだけだ。この人はどう反論されるのかを伺っている。
「いえ、そんなわけないじゃないですか。棲んでる水が違うんだから呼吸できないんですよ」
 私もあくまで笑顔だ。私は笑顔が苦手で、と言うと、いや笑ってるじゃないか、とよく言われるけれど、これが笑っているということなんだろうか。愉快なのには違いない。
「うーん、そんなに息苦しいなら少し肩の力を抜いてみたらどうかな? ほら、呼吸できない、っ考えずに、呼吸できないかもしれない、って。決めつけるんじゃなくて、かも、とか、かな、とか、って考えてみれば楽かもしれない」
 わかりきっているのに、断定しないっていう嘘。卑怯で面倒くさいだけ。
「そう、かも、しれません」
 あえて、かも、と強調してみる。素直すぎる嫌味だ。私もカウンセラーも微笑を絶やさないあたりが不気味だと思う。
「赤木さんは自分たちのことを魚、って例えたけど」
 自分たち、って纏めんなよ。私と一緒にしてくれるな……。微笑ながら私もにらむ。
 カウンセラーは続ける。
「先生はみんなの年代はサナギだと思うんだ。子供から大人になるための準備期間だから。芋虫から綺麗に蝶になるための蛹と似てるよね」
「サナギ、ですか」
 私は繰り返した。意外な例え。素朴だけれど概ね言いたいことはわからなくもない、面白い比喩かもしれない。
「そうそう、サナギ。だから殻をちょっと硬くすることもある。まだサナギになりかけている人だっているし、もうすぐ羽化しようっていう人もいる。早ければ良いわけでもないし、遅いからって引け目を感じることはないと思う。みんな違って当たり前なんだよ。
 でも、サナギになっている時に殻を無理に割ったり、揺さぶったりするとどうなるかな」
 そりゃあ死ぬだろう。小さなころに育てた芋虫を思い出す。緑色だったり茶色だったりする蛹たち。モンシロチョウとかアゲハになって空に放すこともあったし、蛹のままじいっと動かなくて、段々と色褪せて縮んでいくこともあった。
 神妙に聞く私に、カウンセラーは小さくうなずく。
「先生たちは、みんなに綺麗な姿で蝶になってほしいんだ。だからこうやって手助けしてる。赤木さんならわかるんじゃないかな。まだサナギから強引に出ることは無いんじゃないかな?」
 目元が少し緩んでいるように見える。確かにその比喩は腑に落ちる。この話は、たぶんこの人の常套手段なんだろう。落ち着き払って、ゆっくりと慎重に言葉を並べているようだった。
 けれど、それはどちらかと言うならマセたワルにする例えじゃないか。ワルがそんな話を聞くかはともかくとしても。
「そうなの、かも、しれませんね。でもみんな蝶ってわけでもないんじゃないんですか。一匹くらい蛾が混じっているかもしれないし」
 嫌味ったらしく言ってみる。でもまともに反論になってないことはわかる。もし、私は別に強引に蝶になろうとしているんじゃない、と否定したところで、それを受け入れてくれるとも思えない。それにどちらかと言うと私は、サナギからもう一度新しくサナギになっているような変種、といった感じだ。
 ふうむ、とおじさんも口を閉ざす。そろそろこの生意気な中学生に嫌気がさしているんだろう。
 カウンセラーの隣に座る、ずっと黙っていた大島先生が身を乗り出す。
「なぁ真琴。どうしたんだ、いきなり」
 くりくりとした目が滑稽だ。色黒で禿げ上がっているせいで、やけに白目のインパクトが強くなって少し不気味。
「中間はいつも通りの一位だったじゃないか。それがいきなり――」
「どうしたんでしょうね」
 先生の言葉を遮る。私にもはっきりとわかるわけじゃない。ただきちんと行動を結果に反映させただけだ。今まで反映されていなかったから気が付かなかっただけで。
 大島先生の目が凄みを増す。
「このままじゃ東山も行けんぞ。いや、俺が行かさん。今のお前に行ってほしくない。お前がそんなんじゃ、白瀬中の生徒を取ってくれなくなる」
「それで、良いんです。東山は余計に海水濃いって思いません? 先生も東山出身ならわかると思いますけど」
 大島先生はいよいよ怒鳴りそうになったけれど、カウンセラーのおじさんを気にして何も言わなかった。目をきつく閉じて筋肉の盛り上がる太い腕を組んで、身体を前後にゆらゆらと動かし始める。アダージョくらいのテンポを刻む。聞こえてくる吹奏楽部のトランペットの音のテンポと微妙にずれているせいで、何となく居心地が悪くなる。
「赤木さん、何があったか話してくれませんか? 話してくれないと、先生たちも何もできませんから」
 カウンセラーの口調はそれでも穏やかだ。
「何もないんです。本当に。何も」
 正直な私。間違いなく何もない。むしろ今までが何もかもありすぎていたのだから。どっちが悪意なのだろう。本当に助けてほしかったのは、こうなる前の私だったのかもしれないのに。わからない。これだけはまるで私にもわからない。
 私は壁に向かい側の壁にかかった時計を伺う。約束された面談の時間を十分くらい超過していた。
「……時間も来てますし、部活に行っても良いですか」
 カウンセラーの微笑も貼りつけたみたいになっていて、作り笑顔なのがわかりやすすぎるくらいにまでなっている。大島先生の身体の揺れが止まる。
「行きゃあエエ。お前がそれでエエんなら先生は止めん。どうなっても知らん。それでエエんやな」
 大島先生は口だけを動かす。まるで激痛に耐えているかのように、目の閉じ方がもっときつくなっている。
 どうしてこの人はこんなに怒っていられるんだろうか。
 私は静かに立ちあがる。おじさん二人は座りっぱなし。失礼します、と私は学生鞄を持って、一礼して出口に向かう。重いドアを引いて開けて出ようとしたところで、後ろからカウンセラーの落ちついた声が聞こえた。
「また今度も話そう。それで先生たちと一緒に、きちんと進むべき――」
「ありがとうございました」
 振り返らずに言って、私は面談室を出てドアを閉める。
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