ウラオモテ
 職員室の前の廊下を通って、中央階段で四階へ。そして階段を上がって左手の突き当りにある音楽室へと足早に向かう。開放廊下ではトランペットを運動場の方に吹く後輩がいる。中学校のある丘からは、白瀬町の古びた港が見渡せるし、海に向かってトランペットを練習している姿だけでそれなりにも見えてしまう。特にこんな晴れた夕方は。
けれど、せっかく基礎練しているんだし、それならメトロノームを使えと言いたくなる。一年だから知らなくても無理はない。小柄なその後輩は通り過ぎる私にぎこちなく小さな会釈をした。
 音楽室に入ると、バチで机をたたいてリズムを刻むパーカッションの音が耳を突いた。鞄を入り口近くにおいた。荷物の類はここに置くことになっているのだが、大体が一年生のもので数はまばらだった。概ね鞄の装飾で誰のかはわかる。たぶん二年生がまだ来ていないんだろう。期末テストの成績配布が長引いているんだろうか。あの子たちはサボらない。私たちの学年とは違って。三年生で来ているのは、恐らく私と美果とあと二人だけの、合計四人だけ。こんな有様だから合奏も上手くいかない。
 音楽室から続く音楽準備室に向かうと、美果と川本先生が二人だけ話しているところだった。先生は自分の机の前の回転椅子に座って、口をへの字に曲げてゆらゆらと身体を半回転させている。新任で去年来た若い先生ということもあるけど、こういうラフなところが川本先生の先生らしからぬところだと思う。先生というより「お姉さん」然としている。
「わ、真琴きたっ」先生の前でフルートを持って立っていた美果が驚いてこっちを見た。何となくしんみりした空気だし、私の期末テストの話でもしていたんだろうか。
「マコ、あんたどういうつもりなん」
 詰問調の先生は上目で私の顔をうかがう。大島先生とは違って、怒ってるわけではなさそうだ。不思議がっている感じ。
「えー、先生のはだいたい満点だったじゃないですかぁ」
「四八点。満点取りなさい、吹奏楽部」
 ぺし、と軽く腕をはたく先生。
「何でフォルテシモがピンなんですか、先生のケチ」五〇点満点とったつもりで二点落としたのはそこだった。私がffの記号をまさか間違えるわけもないのに、何故かフォルテシモと書いてピンされていたのだった。
 川本先生は教卓の本棚から、三年生の音楽の教科書を抜き出して巻末のページを開ける。
「ほら、ここ見なさい」
 指さした先にはff……「フォルティッシモ」と書かれている。
「教科書通りに書きなさいって前言ったじゃん。美果も理沙もきちんとフォルティッシモって書いてたのに、マコだけ違うとかどういうわけ?」
 ――納得いかない。美果のほうを見ると、こくんと首を縦に振っている。嘘じゃん、そんな理由だけでピンとか。
「先生、ケチ」
 私は口を尖らせる。先生は、ケチとは何よ、と言いながら、してやったりと言わんばかりの不敵な笑顔を浮かべていた。私もピンのくだらなさが可笑しくて、つい悔しいのに笑ってしまう。
「で、さっき大島先生と美果にも聞いたんだけど」
そして、さっとその表情を消す。
「マコ、五教科全部五〇点ってホントなわけ」
 私も笑みが消える。ええ、まあ、と曖昧な返答で首をかしげる。
「絶対わざとよね。この前までずっと学年トップ独走してたマコが急にバカになるとか、絶ッ対、ありえんから」
 絶対、を強調しているあたり先生らしい。
「ごめん、先生。わざとやった」
 期末テスト五教科合計二五〇点ぴったり。全教科五〇点になるように配点を計算して正解を書いていった。案外五〇点分だけをきっちり獲得するのは簡単だった。美術は実技試験があるから得点操作できないし、保健体育と技術家庭科はそこまで正確に操作できないけど、だいたい五割の得点に抑えた。思いがけない失点は音楽の四八点だけだった。完璧に満点取ったつもりだったのだけど、足もとをすくわれたみたいな気分だ。
「何でなん? このままだと成績、あのままでついちゃうよ? それで良いの?」
 川本先生は本当に私のことを心配してくれている。私は少し寂しいような、哀しいような気分になった。
「良いんです。音楽だけは満点のつもりだったのに」
 本音だ。川本先生の音楽だけは、そんな悪ふざけみたいなことをしたいと思わない。
「なあ、ウチ最近マコのこと心配なん。部活じゃいつも通りなのに、授業じゃ手もあげなくなったって聞いたしさ、それでテストこの結果でしょ。何かあったん?」
「何も……」
「何もないならこんなことしないでしょ。ウチにも言えんことなわけ?」
 裏切られた、とでも言いたそうなキツい口調に変わる。思い切り胸を突かれたような気がした。何か、言わなきゃ。黙ってたらきっと先生に見離される。
「……美果から聞いたんじゃないんですか」
 その場しのぎの解答。隣の美果に目で助けを求める。曖昧な笑顔で首を傾げられた。完全に良い子モードな時の対応だ。可愛らしく小首を傾げてスルーだなんて、できるなら私もやってみたい。
「逃げない。マコの口から聞いてない。このままだと部活に出させない。この前から何点下がってると思ってるわけ? 言わないなら部に来ちゃいけなくなるけど良い?」
 川本先生は私の左手首を掴む。一瞬ひやりとした。三秒くらい睨み合って、私は観念する。この先生にしても目力がやけに強い。
「いい加減、テストで一位取り続けるのに飽きたんです。もう優等生やめたくなって」
 左手首が解放される。
「は? 何それ、本当なの」
 私は「はい」とだけ短く返す。美果からも同じことを聞いていたのかもしれないけれど、先生は手で前髪をかきあげて、天井を見上げ、ため息をついた。静かな空気が重い。美果も居心地が悪そうにしている。私の面談中から先生にいろいろと聞かれていたのかもしれない。私のことはどこまで打ち明けたんだろう。
「マコ無理してるなー、って何となく思ったけどさ……」
 意外な言葉だった。そんな素振りを今まで見せた気はないのに、気づかれてたんだろうか。それとも気づいていたフリなのか。
「とりあえずもう成績ついちゃってるしさ。何でも良いからウチに相談すること。一人で抱え込まない、良いね?」
 ――ああ、心配してくれてるんだ、この人は。心から、人として。
「はい。全部落ち着いたら、相談させてください」
 喉に圧迫感を感じて息苦しくなる。急に、泣きながら全部ぶちまけてしまいたいと思った。でもそれを呑み込む。余計に息苦しくなっていく。今度は右の手首を美果に掴まれた。うなずくことしかできない。それを横目で見た川本先生が、私と美果の手をそれぞれ握る。手をつなぎ合ってつくられた三角形。
「良い? あんたらニコイチってよくウチ言ってるけどさ、たまには先生も頼りなさい。支え合って共倒れ、とか笑えないから。いつでも話聞くから」
 そうやって先生は私たちを交互に見据えて、最後にもう一度「良い?」と念を押した。私は先生の節くれだった手を握りかえした。
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