ウラオモテ
朝の部活を終えて二階の三年B組の教室に向かって廊下を歩いていると、後ろから荒い足音が近寄ってきた。
「赤木、おはよう」
野太い声に身構える。大島先生の、それも相当機嫌の悪い時の挨拶だ。どうせ会うならホームルームの時に大勢のクラスメートと一緒に会いたかった。それなら一対一で言葉をかわすこともないのだし。
うんざり。たぶんまた怒鳴られる。
「大島先生、おはようございます」
私はくるりと半回転して、その場で立ち止まってお辞儀をする。呼び止められることはわかっていた。
「赤木、昨日のことはよぉ考えたんか」
先生は私の目の前で立ち止まった。仁王立ち。声色から雰囲気の悪さを感じたのだろう、先生の後ろをそそくさと女子生徒の一団が小走りに駆け抜けていく。
「……はい、考えました」
私は、毅然と立ち向かうことを心に決めていた。ここで怯むことなんてない。足の指に、ぐっ、と力を込めて私は先生の顔を真っ直ぐに見る。
「それで、どうするんなぁ」
私の態度が気に食わないのか、先生の声に混じった苛立ちが濃くなった。
「お父さんお母さんに言われて、ちょっとは考え直してみよう言う気になったか」
そんなわけあるはずがない。
「いえ、変わりません。あの点数が私の実力ですから」
「お前、まだそんなこと言うとんのか。エエ加減にせぇよ、なあ。先生らぁが一生懸命に頑張って教えて、テスト作ってきとるんに、お前があんな不真面目に受けてどうするんなぁ……」
廊下にあった、生徒のごく当たり前のざわめきがいつの間にか消えている。眩暈でもしそう。でも、それでも。「不真面目……?」
声を振り絞る。
「私はあれで良いんです。あれが私の答えです。今さら何を言われても変える気なんてありません……!」
この先生に面と向かって、こんな口答えをするのは初めてかもしれない。というより、他の誰もそんな口をきいたことを見たことが――。
「おめぇは自分の立場わかっとんのか!」
シンバルが耳元で炸裂したかのような大音響。たまらず私はそらして、先生の太い脚を見る。目を見るんじゃなかったのか。でも見えない。
「エエか赤木、おめぇは皆の目標なんじゃ、この白瀬中の代表でもあるんぞ。それがいきなりおらんなるようなことしてどうするんな、おめぇが皆の先頭に立って引っ張っていかにゃいけんじゃろうが!」
学校中に響く大声。
「俺ぁ情けねぇぞ、あ? みんななぁ、受験に向かって頑張ろういうて先生らぁ言うとろうが! おめぇがその先頭に立っとんたんに、それが逸れてどうすんなぁ! 東山行こう言うとった他のやつらが落ちたらおめぇの責任にもなるんで、おめぇならわかっとろうが!」
全部、全部、押し付けだ。勝手にこの人たちが決めた「私」の横暴。
「わかってますよ……。それ、私の決めた、ことじゃないことも……」
「ああ、もっぺん言うてみぃ……」
言う。引き下がるか。
「私は好きで、一位にいたんじゃ、ない。他の連中がどうなっても、そんなの私のせいじゃない。全部、押し付け……」
息が苦しい。途切れ途切れにしか訴えられない。
「ああ? 押し付け? だから逃げるんか。逃げてエエ思うとんのか! そんなおめぇやこ俺ぁ知らんぞ!」
「知るわけない、じゃないですかっ……」
「先生らぁに申し訳ねぇとは思わんのか! 皆おめぇに期待しとって声かけてきたんに、それを裏切ってエエはずなかろうが!」
ふざけんな。お前らのほうが私に謝れ。
「勝手に期待するなよ……」
「何つった今……? こっち見て言うてみい、俺の顔見てそれでも言えるんか!」
言ってやる。言って。そうじゃなきゃ意味がない。何回でも。
ふわん、と床が傾いた。
大島先生の咆哮が、ぐい、と近くなる。毛むくじゃらのごつい手が私の視界の左から伸びてきて、顎を無理矢理に引き上げようとした。私はそれを避けようとして、廊下の床に腰を打ち付けた。もう、身体の力がまるで入らない。呼吸が荒い。とと、ととと、心臓の早打ちが頭のなかに響き続ける。壁にもたれるしかなかった。冷静な私がそれを観察していた。冷静でいる以外ない。頭がずっと回転し続けて。
「大島先生!」
どこかから声が聞こえた。しゃがれた女の人の。寒川先生? たぶん。でもこんな大声聞いたことない。酷く焦った声。あの先生がそんな声を出せるの。
震えの止まらない身体に、優し気な手が触れた。私の両肩を抱きかかえるように。それからゆすられる。「マコ、しっかり」目の前には川本先生の顔があった。目が充血しているように見えた。
「落ち着いてください、大島先生。赤木さんこんなに怖がって……手まで出しちゃいけないでしょう」
「でもこいつぁ……」
寒川先生が大島先生を必死に止めているらしい。何事かと聞きつけて、何人か先生が止めに入ったような気配だった。たぶん、A組にいた寒川先生が呼んだんだろう。そういえばここはA組の目の前だ。
「いったん大島君も落ち着いて。B組の面倒はわしが見ますから、少し頭を冷やして」――教務主任の、馬場先生の声。大島先生とは違ってこの人の声の低さは落ち着く。この人がいるなら、大島先生もこれ以上激昂できないはず。「川本先生、赤木さんの様子は」「あ、はい。ちょっと立てそうにないのかも」「馬場先生、私、保険の先生呼んできましょうか。どこか打ったりしていたら」……大丈夫、身体の震えが止まらないだけで。
「大丈夫です、このままで」
もっと先生を呼ばれる前に、私は必至に声を出す。声まで震えている。悔しい。こんなに臆病でしかいられない私。
助かった。
毅然と立ち向かうつもりだった、なんて。結果はただ、座り込んで震えているだけ。そんなうまくいくわけないじゃない、そんな言葉が頭に浮かんできては、私は無視を決め込む。
「今は、これで、今は。これで良い……大丈夫……」
吐き気もする。大丈夫、と訴えるにはたぶん私はそう見えてなんかない。けれど口は大丈夫と言い続ける。どこかかけ離れた私が私の身体を操っていく。
「マコ、無理しない。大島先生もういないから。ウチがここにいるから」
川本先生は必死だ、きっと。そんなこと言って良いのだろうか、先生が先生を悪いように言うなんて。この人混乱しているから、あんな場面に遭遇して。
顔を上げた。大島先生は本当にいない。馬場先生、寒川先生、川本先生。心配そうな、そして戸惑っている先生の顔が三つ。私は川本先生の肩を貸してもらって、ようやく立ち上がる。脚の震えはおさまらないけれど。
「あれ、私の鞄……?」
どこにやったのかもあやふやだ。
「藤原さんがもっていってくれましたよ。少し休む?」
寒川先生が応える。「大丈夫です」私はB組の教室に向けて一歩。そっか、麻由が鞄運んでくれていたんだ。まるで気が付いていない。バカみたい、いつの間に。
「ご迷惑、おかけしました。失礼しました」
微笑はつくれなかったけれど、とにかくそう言う。3Bのドアは、それでも付き添ってくれる川本先生が開けてくれた。生徒たちの不思議そうな、怯えたような、好奇の、そんな視線が刺さってくる。私は構わず、ひとりで自分の座席に向かう。座ると一息。鞄は机の上に置かれていて、隣の席は空っぽ。美果は今日はまだいない。欠席だったら嫌だな。また今日来ないんだろうか。来させてくれないのか。
落ち着こう。
目を閉じて私は何度かため息をつく。昨日から怒られるばかり、くだらない。所詮私だけの成績、他人事なのに。
「赤木、おはよう」
野太い声に身構える。大島先生の、それも相当機嫌の悪い時の挨拶だ。どうせ会うならホームルームの時に大勢のクラスメートと一緒に会いたかった。それなら一対一で言葉をかわすこともないのだし。
うんざり。たぶんまた怒鳴られる。
「大島先生、おはようございます」
私はくるりと半回転して、その場で立ち止まってお辞儀をする。呼び止められることはわかっていた。
「赤木、昨日のことはよぉ考えたんか」
先生は私の目の前で立ち止まった。仁王立ち。声色から雰囲気の悪さを感じたのだろう、先生の後ろをそそくさと女子生徒の一団が小走りに駆け抜けていく。
「……はい、考えました」
私は、毅然と立ち向かうことを心に決めていた。ここで怯むことなんてない。足の指に、ぐっ、と力を込めて私は先生の顔を真っ直ぐに見る。
「それで、どうするんなぁ」
私の態度が気に食わないのか、先生の声に混じった苛立ちが濃くなった。
「お父さんお母さんに言われて、ちょっとは考え直してみよう言う気になったか」
そんなわけあるはずがない。
「いえ、変わりません。あの点数が私の実力ですから」
「お前、まだそんなこと言うとんのか。エエ加減にせぇよ、なあ。先生らぁが一生懸命に頑張って教えて、テスト作ってきとるんに、お前があんな不真面目に受けてどうするんなぁ……」
廊下にあった、生徒のごく当たり前のざわめきがいつの間にか消えている。眩暈でもしそう。でも、それでも。「不真面目……?」
声を振り絞る。
「私はあれで良いんです。あれが私の答えです。今さら何を言われても変える気なんてありません……!」
この先生に面と向かって、こんな口答えをするのは初めてかもしれない。というより、他の誰もそんな口をきいたことを見たことが――。
「おめぇは自分の立場わかっとんのか!」
シンバルが耳元で炸裂したかのような大音響。たまらず私はそらして、先生の太い脚を見る。目を見るんじゃなかったのか。でも見えない。
「エエか赤木、おめぇは皆の目標なんじゃ、この白瀬中の代表でもあるんぞ。それがいきなりおらんなるようなことしてどうするんな、おめぇが皆の先頭に立って引っ張っていかにゃいけんじゃろうが!」
学校中に響く大声。
「俺ぁ情けねぇぞ、あ? みんななぁ、受験に向かって頑張ろういうて先生らぁ言うとろうが! おめぇがその先頭に立っとんたんに、それが逸れてどうすんなぁ! 東山行こう言うとった他のやつらが落ちたらおめぇの責任にもなるんで、おめぇならわかっとろうが!」
全部、全部、押し付けだ。勝手にこの人たちが決めた「私」の横暴。
「わかってますよ……。それ、私の決めた、ことじゃないことも……」
「ああ、もっぺん言うてみぃ……」
言う。引き下がるか。
「私は好きで、一位にいたんじゃ、ない。他の連中がどうなっても、そんなの私のせいじゃない。全部、押し付け……」
息が苦しい。途切れ途切れにしか訴えられない。
「ああ? 押し付け? だから逃げるんか。逃げてエエ思うとんのか! そんなおめぇやこ俺ぁ知らんぞ!」
「知るわけない、じゃないですかっ……」
「先生らぁに申し訳ねぇとは思わんのか! 皆おめぇに期待しとって声かけてきたんに、それを裏切ってエエはずなかろうが!」
ふざけんな。お前らのほうが私に謝れ。
「勝手に期待するなよ……」
「何つった今……? こっち見て言うてみい、俺の顔見てそれでも言えるんか!」
言ってやる。言って。そうじゃなきゃ意味がない。何回でも。
ふわん、と床が傾いた。
大島先生の咆哮が、ぐい、と近くなる。毛むくじゃらのごつい手が私の視界の左から伸びてきて、顎を無理矢理に引き上げようとした。私はそれを避けようとして、廊下の床に腰を打ち付けた。もう、身体の力がまるで入らない。呼吸が荒い。とと、ととと、心臓の早打ちが頭のなかに響き続ける。壁にもたれるしかなかった。冷静な私がそれを観察していた。冷静でいる以外ない。頭がずっと回転し続けて。
「大島先生!」
どこかから声が聞こえた。しゃがれた女の人の。寒川先生? たぶん。でもこんな大声聞いたことない。酷く焦った声。あの先生がそんな声を出せるの。
震えの止まらない身体に、優し気な手が触れた。私の両肩を抱きかかえるように。それからゆすられる。「マコ、しっかり」目の前には川本先生の顔があった。目が充血しているように見えた。
「落ち着いてください、大島先生。赤木さんこんなに怖がって……手まで出しちゃいけないでしょう」
「でもこいつぁ……」
寒川先生が大島先生を必死に止めているらしい。何事かと聞きつけて、何人か先生が止めに入ったような気配だった。たぶん、A組にいた寒川先生が呼んだんだろう。そういえばここはA組の目の前だ。
「いったん大島君も落ち着いて。B組の面倒はわしが見ますから、少し頭を冷やして」――教務主任の、馬場先生の声。大島先生とは違ってこの人の声の低さは落ち着く。この人がいるなら、大島先生もこれ以上激昂できないはず。「川本先生、赤木さんの様子は」「あ、はい。ちょっと立てそうにないのかも」「馬場先生、私、保険の先生呼んできましょうか。どこか打ったりしていたら」……大丈夫、身体の震えが止まらないだけで。
「大丈夫です、このままで」
もっと先生を呼ばれる前に、私は必至に声を出す。声まで震えている。悔しい。こんなに臆病でしかいられない私。
助かった。
毅然と立ち向かうつもりだった、なんて。結果はただ、座り込んで震えているだけ。そんなうまくいくわけないじゃない、そんな言葉が頭に浮かんできては、私は無視を決め込む。
「今は、これで、今は。これで良い……大丈夫……」
吐き気もする。大丈夫、と訴えるにはたぶん私はそう見えてなんかない。けれど口は大丈夫と言い続ける。どこかかけ離れた私が私の身体を操っていく。
「マコ、無理しない。大島先生もういないから。ウチがここにいるから」
川本先生は必死だ、きっと。そんなこと言って良いのだろうか、先生が先生を悪いように言うなんて。この人混乱しているから、あんな場面に遭遇して。
顔を上げた。大島先生は本当にいない。馬場先生、寒川先生、川本先生。心配そうな、そして戸惑っている先生の顔が三つ。私は川本先生の肩を貸してもらって、ようやく立ち上がる。脚の震えはおさまらないけれど。
「あれ、私の鞄……?」
どこにやったのかもあやふやだ。
「藤原さんがもっていってくれましたよ。少し休む?」
寒川先生が応える。「大丈夫です」私はB組の教室に向けて一歩。そっか、麻由が鞄運んでくれていたんだ。まるで気が付いていない。バカみたい、いつの間に。
「ご迷惑、おかけしました。失礼しました」
微笑はつくれなかったけれど、とにかくそう言う。3Bのドアは、それでも付き添ってくれる川本先生が開けてくれた。生徒たちの不思議そうな、怯えたような、好奇の、そんな視線が刺さってくる。私は構わず、ひとりで自分の座席に向かう。座ると一息。鞄は机の上に置かれていて、隣の席は空っぽ。美果は今日はまだいない。欠席だったら嫌だな。また今日来ないんだろうか。来させてくれないのか。
落ち着こう。
目を閉じて私は何度かため息をつく。昨日から怒られるばかり、くだらない。所詮私だけの成績、他人事なのに。