不器用王子の甘い誘惑
 笑顔が戻った紗良との通勤は恋人みたいだった。
 ドラマみたいに電車の中ではドア側に紗良を立たせて身を呈して乗客から守ってみたり、電車を降りてからは線路側を歩く紗良を、さりげなくホーム側に歩かせてみたり。

 その度に紗良は微笑んで「松田さんは絵本の人みたい」って意味ありげに言う。

「どういうこと?」って聞くけど、それが紗良の最高の褒め言葉だって俺は知ってるんだ。

 会社の入り口で早瀬主任に会った。

「おはよう。仲良しだね。
 ま、天野さんは松田くんくらいしっかりした人がいいよ。」

 手を繋いでいたのは電車に乗るまでで、もちろん早瀬主任には見られていない。

 冗談で言っているのくらい分かるけど、早瀬主任はやっぱり信頼できる人だと嬉しくなった。
 紗良は赤い顔で「それは松田さんに失礼ですよ!」と怒っている。



 席に行くとすでに来ていた経理課の天野さんがいた。

「紗良ちゃん。ごめんね。心配かけて。
 探して無かったら出金伝票っていう手があるから、それでどうにか……。
 まぁどうしたの?これ。」

 紗良が天野さんに先ほどの領収書を差し出した。

「松田さんがわざわざ窓口でお願いしてくれたみたいで。
 再発行してもらって持って来てくれたんです。」

 天野さんも安堵の表情を浮かべ、じゃこれはきちんとスリーピングの方に送っておくわね。と帰って行った。
 天野さんも紗良の責任感が強いことを気にかけてくれていたようだった。


 天野さんが去ると紗良が改まった声を出した。

「本当に松田さんにはなんてお礼を言ったらいいのか。」

 まだ早い時間。
 早瀬主任もどこかに行って2人きり。
 だからそっと耳元で囁いた。

「俺の友達に会ってくれるよね?」

 真っ赤な顔で耳を押さえた紗良がコクコクと何度か頷くと何人もの社員が続々と出社してきた。

 俺たちは素知らぬ顔をして、俺はパソコンを立ち上げた。

 真っ赤な紗良に大池さんが心配そうに聞くのがおかしいのに笑っちゃいけない。

「紗良ちゃん大丈夫?
 熱でもあるんじゃない?」

「へへっ。」

 え?へへっ?

 驚いた俺に寄りかかるように倒れて来た紗良は本当に体が熱くて辛そうに肩を上下させていた。

「え?本当に?大丈夫かい?」

 体調が悪かったならどうして……。
 責任感が強いのも大概にしなよ。

 浮かれて俺はなんて馬鹿なんだ。

 紗良の腕をつかんで「医務室。連れてきます」と歩き出した。

 本当は抱き上げて連れて行きたい。
 辛そうでふらついている紗良を見てられない。

「遠慮せずにしがみついていいから。」

 そう言うことしか出来なかった。




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