【長編】戦(イクサ)林羅山篇
清原秀賢
 清原秀賢は後陽成天皇の侍読と
して仕える公家で明経道(みょう
ぎょうどう)という儒学を研究、
教授する学科の教官、明経博士を
していた。
 以前から林羅山の弟となった信
澄とは面識があり、漢文を読みや
すくする訓点の方法について教え
たりする旧知の仲だった。そのこ
とを知った稲葉正成は自分がもと
は林姓だったこともあり、秀才の
信澄を援助していた。
 正成は小早川秀秋が朝鮮出兵か
ら帰って処罰された頃から、いず
れ徳川家康に仕官することになる
と考えていた。
 関ヶ原の合戦が起きた年、信澄
がまだ信勝を名乗っていた頃に朱
子学の講義を開かせ、それを知っ
た秀賢が家康に、
「この講義は朝廷の許可を得てい
ない」と告訴させ、その存在を印
象づけた。
 その後、秀秋が死んだように見
せかけ生き延びていることを知っ
た朝廷は、秀賢に秀秋を信勝とし
て家康に仕官させるように命じ
た。そこで秀賢は自分の儒学が藤
原惺窩の教える儒学とは考え方が
異なり、信勝が惺窩の弟子となる
と、自分の儒学の脅威になると考
え、幕府への仕官を好ましく思っ
ていないように装っていた。
 そんな経緯から家康は秀賢を問
答に呼び、羅山と競い合わせるつ
もりでいた。
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