【長編】戦(イクサ)林羅山篇
二の丸の千
 大野治長と真田幸昌が台所から
出ると台所頭の大角与左衛門が
やって来ていた。
 治長が声をかけた。
「与左衛門殿、こっちじゃ」
 与左衛門は治長に気づいて側に
来た。
「こちらは準備が整いました。そ
ちらも終わったようですな」
「ああ、こっちも無事に済んだ。
ご苦労様」
「いよいよ最後の総仕上げです
な」
「問題は千の方様が言うことを聞
いてくださるかじゃ」
 千は秀頼から離され、その怒り
から二の丸に引きこもっていた。
 与左衛門は苦笑して言った。
「とにかく二の丸から出ていただ
かないと、台所に火が点けられま
せぬ。このままでは大御所様に疑
われまするぞ」
「分かっておる。何とか説得しよ
う。幸昌殿は山里曲輪の糒倉(ほ
しいぐら)に向かってくだされ。
中には与左衛門殿が仕込んだ火薬
があるから私が行くまで誰も絶対
に入れぬように」
「はい、分かりました。では」
 幸昌は糒倉に向かい、治長は二
の丸に向かった。そして与左衛門
は台所に火を点ける準備を始め
た。
 二の丸の一室に千は静かに座っ
ていた。手には小さな菩薩が握り
締められていた。そこに治長が
入って来て千の前に座り、一礼し
て言った。
「千の方様、どうかお父上のもと
にお戻りください。もはやここに
は秀頼様はおられません」
 千は怒りとも悲しみともつかな
い気持ちで体が震えた。
「秀頼様は生きておられるのです
ね。私は置いて行かれたのか。最
後まで私は秀頼様の妻とは認めて
もらえなかったのですね。その
上、生き恥をさらせとはよく言え
たもの」
「そうです。千の方様を秀頼様の
奥方とは誰も思うておりません。
ここで死なれては豊臣家は千の方
様を人質にとって殺したと、末代
まで物笑いの種になりましょう。
生き恥をさらす勇気もないお方を
誰が秀頼様の奥方と認めましょう
や」
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