【長編】戦(イクサ)林羅山篇
諸法度
 秀忠は大坂城での戦のどさくさ
に逃亡した豊臣勢の残党狩りをす
る一方、豊臣秀吉が豊国大明神と
して祀られている京、豊国神社の
取り壊しを崇伝に命じた。
 民衆をも巻き込んだ残忍な戦と
精神的支柱だった豊国神社の取り
壊しは幕府に対する不満を増大さ
せ将来に対する不安と絶望が広
がった。ところが秀忠はすかさず
一国一城令を発した。
 秀吉の天下統一後も豪華絢爛な
城が造られ諸大名の威光を競い
合っていたが、それが大名の居城
だけを残し防御の要の城が次々に
取り壊されていくのを目の当たり
にして、民衆は始めて戦がこの世
から完全になくなったのだと実感
した。
 更に秀忠は武家諸法度を崇伝に
起草させ、伏見城に諸大名を集め
布告した。
 武家諸法度は十三ヶ条からな
り、教養を身に着けることや生活
態度を戒め、築城の禁止と修築の
届出、家臣の登用などにも配慮し
て謀反に目を光らせ、結婚の許可
や衣装、輿に乗れる者の条件など
まで幕府の指示に従うように命じ
ている。
 これにより諸大名の改易や領地
転封が頻繁に行われ、これを恐れ
た領主が率先して質素倹約の生活
を実践したため、領民もそれに習
い法度の効果が身分をこえて末端
にまで広まった。
 次に家康は禁中並公家諸法度を
これも崇伝に起草させ、二条城で
公布した。
 禁中並公家諸法度は十七条から
なり、公家だけでなく帝までも行
動が規制され、幕府の管理下に置
かれた。
 世間はここにきてようやく徳川
家が帝をも超えた存在になったこ
とを知った。
 これらの起草で発言権を強めた
崇伝は秀忠に進言し、かねてから
朝廷に特別扱いされ対立していた
大徳寺、妙心寺の行動を規制する
ことを狙った寺院諸法度を布告さ
せて、自らが宗教界の統制の任に
就いた。
 道春はこうしたことに加わるこ
ともなく、もっぱら雑用をして、
八月に家康が駿府に戻るのに同行
した。
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