【長編】戦(イクサ)林羅山篇
崇伝の死
 寛永十年(一六三三年)
 正月になって間もなく崇伝が病
に倒れ死んだことが家光に知らさ
れた。
 崇伝は政務に深くかかわってい
たが、この頃はすでに海外との国
交がほとんどなくなっていたた
め、外交文書の起草はそれほど必
要なく、家光は内政の助言を権力
に媚びない沢庵に求めることにし
た。しかし沢庵はこれを辞退し
た。それをさらに気に入った家光
は何かと理由をつけて沢庵を江戸
城に呼び出し、助言を求めるとい
う妥協策に沢庵も従った。
 沢庵が幕府に深くかかわること
を拒んでいるため、実務は道春に
まわってくるようになっていっ
た。
 七月
 家光は上野にある東照宮に参拝
し、寛永寺の天海を訪ねた後、道
春の私塾にも初めて立ち寄った。
 塾舎は塾生が三十人ほど入れば
いっぱいで、こじんまりとしてい
た。それに比べ、徳川義直が寄進
した先聖殿は立派なもので、家光
は孔子像を興味深そうに眺めた。
そして久しぶりに道春から「書
経、堯典の章」の講義を受けた。
「道春、今後は海外からの文物は
手に入りにくくなる。となればこ
の日本独自で知恵を高めねばなら
ん。こうした学問所の役割は重要
になってくるであろう。そなたに
おおいに期待する」
 そう言って白銀五百両を道春に
与え、秀忠が亡くなり、道春の補
佐をすることになった東舟にも時
服三領が与えられた。
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