月へのスパート
月へのスパート <下> ~運命が変わる時、いつも月に向かって走っていた~
 9月3日、この日は日曜日であり、陸上部は、県を越え山の中にある田舎町でのロードレース大会に参加した。これが、私にとって足の怪我から復帰してからの最初の試合だった。天気はとても良く、都会を離れ山の上のほうにある田舎町でのレースであったため、自分が住んでいた街よりもだいぶ涼しく感じられた。レースをするにはなんとも助かる気候だった。私は男子5000Mのロードレースへの参加だった。レースが始まり、皆が一斉に走り出した。最初の1000Mまでは、先頭集団の中で私はなんとかペースを保ちながら走り続けた。初めて走る場所は山道のカーブや急な坂ばかりであり慣れない感覚だった。その分、初めて走るコースに対して新鮮な気分を感じていた。しかし、私にはこれまでの相当なブランクがあったため、2000Mを過ぎたあたりで案の定バテてしまった。ペースはすっかり落ちて、走る度に迫ってくる登り坂にとても苦労した。そして、4000Mを過ぎた地点で、私は右足の靴の紐がほどけていることに気が付いた。一旦、止まって紐を結び直そうとしたが、残り1キロを切っておりなんとか持ちそうであったため、そのまま走りきってゴールした。久しぶりに感じた疲労感だった。とてもきつく感じレース後はしゃがみこんでしまった。レース中に靴の紐がほどけてしまうことはプロの陸上選手にとって致命的なことである。そんな当たり前のことすらできなかったことに対して、私は自分自身の弱さと甘さを痛感した。勿論、順位は下位のほうでありタイムもぼろぼろだった。それでも、このロードレース大会は、私にとって実に貴重な復帰戦となった。

 9月は、私自身、練習に最も打ちこんだ1カ月だった。陸上部長距離はいよいよ駅伝に向けた本格的な練習に取組み始めた。毎年、この時期から瀬野市の市街地を出て田舎町の方へ向かい、上り下りが激しい山道でのロード練習を行った。毎回、ロード練習を行う度に、松永先生がトヨタの黒のハイラックスサーフを運転しながら、走っている選手の横を車で走った。先生は車の中からメガホンを使って1人1人フォームやピッチについて指摘した。常に先生から監視されたようなこの練習メニューは選手達にとって精神的にもきつかった。私は、スタミナが全盛期に比べてだいぶ落ちており、私の最大の武器であるスパートも復帰してからなかなかすぐには本領発揮とはならなかった。松永先生は私に対して練習後は両足のアイシングを欠かさず毎日行うようにと言っていた。
 一般的に、高校駅伝の仕組みは、男子が42.195キロメートルを7区間に分けて走り、女子が21.0975キロメートルを5区間に分けて走る。男子は1区が10キロ、3区と4区が8.0975キロ、2区と5区が3キロ、6区と7区が5キロである。女子は1区が6キロ、2区が4.0975キロ、3区と4区が3キロ、5区が5キロである。11月に開催される県大会の男女それぞれの優勝校は、12月に京都で開催される全国高校駅伝大会へと出場できるのだ。
 9月8日、放課後、私は職員室に行き、服部先生に数学の質問をしに行っていた。
「先生、微分が分からない」
数三の微分の定義などが複雑で私には理解できなかった箇所がいくつかあり、先生は裏紙に図を書くなどして丁寧に説明をしてくれた。
「あぁ、そういうことか! なんとなく理解できたよ。先生ありがとう!」
「大丈夫か? ここが理解できないと2次試験は厳しいぞ」
服部先生は少し上から目線で話すような厳しい口調で言った。
「やっぱり数三は難しいよ。才能も大事なのかな?」
私は素朴に服部先生に問いかけた。先生はしばらく黙ったあと私に返事をした。
「お前、本気で大学を受験で選ぶのか? 正直な話、佐藤は受験で選ばなくても陸上の推薦で大学に進学するのもありだと思うんだ。お前は勉強をしに大学に行くのか? それとも陸上で活躍したいのか?」
「陸上で活躍したい。大学に入ったら箱根駅伝を目指して頑張りたいと思う」
「お前が行きたい国立大に入ったところで、多分箱根には出られないだろう。あそこは陸上部がそこまで強くはない。それだったら箱根によく出るような強豪な私立大を目指したほうがいいんじゃないか?」
私は服部先生の指摘に対して、何とも返す言葉がなかった。数秒間、自分で何かを考え先生に質問した。
「ねぇ、先生は、なんで数学の教員になったの?」
「数学は答えが1つしかないから俺は好きだ。だけど、人生にいろんな答えがある。いろんな選択肢があるからな」
「確かに、数学は世の中のたくさんのことに利用されているからね」
「俺は数学の問題を解くのが好きなだけだ。別に、数学を活かした科学者になろうとか、電機系のメーカーに勤めようと思ったことは1度もない。数学の教員という仕事がこの世の中にあるから、俺はこの仕事をしているだけだ」
「なるほど…」
私は、先生が言った内容の本当の真意を理解できなかった。
「佐藤、お前は、今、何が1番大事なのか迷っている。当然ながら、足の怪我も治って、秋の駅伝大会も頑張らなければならない。そして、大学受験も控えている。清少のことも気になってしょうがないだろう」
「はい。先生、俺、正直どうしていいか分からない。何を優先すべきなのか…」
「大事なことは信念を貫くことだ。お前にとって何が1番大事なのか。俺が数学の教員にしか興味がないと言ったが、それは、世の中に数学の教員という仕事は必ず存在するからだ。無くなるということはまず無い。その仕事自体が世の中から無くなったときに考えればいいだけだ」
「先生、どういうこと?」
私は先生の目を真剣に見つめて質問した。
「もし、本気で陸上をずっと続けたいのであればもう勉強はしなくていいから陸上だけを頑張れ。勉強してまで大学に行きたいのであれば、陸上は諦めて大学でも自分の目標をもって勉強を頑張ることだ」
服部先生は、そう言いきった後、無言で私の目を見ながら1度だけ首を縦に振った。
「先生、わかったよ。とりあえず、今から陸上の練習に行ってくる」
私は、服部先生が私に対して何を言いたかったのか、職員室を出て何度も何度も考え直したが、やはり意味を理解することができなかった。私はそのまま陸上の練習を開始しにグラウンドへと向かった。
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