ハニートラップにご用心
「お帰りなさい、千春!」
しばらく鍵を開ける金属音が響いたあとに、ガタガタと音を立てて引き戸が開けられる。
元気よく私達を迎えてくれたのは、最後に私を送り出してくれたのと同じ笑みをたたえた母だった。
「こちらが彼氏さん……あ、いえ。旦那様になるんだっけ?」
私が手を繋いでいる相手を見上げて、母は物珍しいものを見るように頭の先からつま先までを観察しているようだった。
「初めまして、土田恭也と申します。千春さんと同じ会社で働いている……上司にあたる存在です」
「あら、そんな堅苦しい挨拶しなくていいのよぉ。あたしは桜野三千代。千春の母で専業主婦をしています」
土田さんが慣れた動作で取り出した名刺を受け取ろうとはせず、母は口元に手を当てて笑った。
「お父さんが居間で待ってるから上がって」
お父さん、と聞いて土田さんの手が少しだけ強ばった気がして見上げる。彼は一瞬硬い表情を見せたかと思うと、すぐに私の視線に気が付いて私を安心させるようにふわりと微笑んだ。
久しぶりの我が家。木の独特の香りを肺いっぱいに吸い込んで、息を吐いた。
少し歩いた先、母が襖を開けると何が私の頬を横切った。隣にいた土田さんが特に焦った様子もなく軽々と避けているのを見て私はぽかんと口を開けた。
「お、お父さん……いきなりなんてことを……」
バサッと音を立てて、父が投げ付けてきたものが床に落ちる。父が愛読している自己啓発本だった。
難しい顔で私の隣に立つ土田さんを睨みつける父。それに応えるように土田さんも真っ直ぐに父を見つめ返す。