ハニートラップにご用心

「すみません。取引先の方から至急連絡が欲しいとかお電話が入ったので、探しに来ました」


そう言われて、内ポケットに入ったスマートフォンを取り出せば着信あるいはメッセージが入っていることを告げるランプが点滅していた。

もう一度顔を上げて千春を見ると、俺に連絡がつかないのでかなり急いで探しに来てくれたのか柔らかな栗色の髪の毛が少しだけ乱れている。

大股で彼女の立つ扉の方に向かい、目の前に立てば千春は少しだけ気まずそうに顔を上げ、俺を見つめた。


「……さっきの人」

「少し前にお付き合いしていた人よ」


静かにそう告げると、千春の大きな瞳が少しだけ動揺で色を変えた気がした。

その肩が少しだけ震えていることに気が付いて、そっと肩に手を乗せて安心させるように微笑んだ。


「ケジメをつけるために話をしただけ。もう未練や心残りはないわ」


そう言うと、千春はどこか安心したように表情を綻ばせた。真っ直ぐに見つめてくる穢れのない瞳に、このまま抱きしめてしまいたい衝動に駆られるが、なんとか抑え込んで彼女の肩を離した。

俺がこの女性口調でいる時は、この子は大抵安心しきって無防備になる。そもそも同じ家にいても、俺がどんなに彼女に男として触れてみせてもなぜだか彼女の中で土田恭也が男だという認識が薄いのだ。

だからこそ可愛らしい表情が見られたりするのだけど、こうも警戒してもらえないとなると考えものだ。だからこそ、このキャラでいることを止められない。


「土田さん?」


ふと、自分の奥底に眠っている汚い感情に気が付いて、俺は瞬きを数度した。

この純粋で人を疑わない瞳が、欲望に溺れるのを見てみたい。俺を求めて、俺だけを求めて、めちゃくちゃになればいいのに。


「何でもないわよ」


顔を覗き込まれて、ようやく意識が現実の世界に引き戻された。

具合が悪いのかと心配そうにする彼女の表情を見れば、先程まで自分が何を考えていたのか忘れてしまった。


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