ハニートラップにご用心

「恭也?」


思い出したくない嫌な記憶が蘇って、こめかみを人差し指で押した。硬直した筋肉を解くように指先の力に強弱をつければ、先程まで感じていた酷い頭痛が少しだけ緩和した気がした。


「幸せか、梨紗」


俺の声が重たい響きを持って空気に溶けた。目の前の女の微笑みは揺らがない。


「とても幸せよ」


彼女の左手の薬指にはめられたエンゲージリングを見て、俺は舌打ちをしたい気分になった。


私利私欲のためにたくさんの男の心を弄んで踏みにじって、ようやく辿り着いた幸福の味は彼女にとってさぞ甘美なものなのだろう。

俺には理解しがたい。死んでも味わいたくないものだ。


「結婚おめでとう。さようなら、お元気で」


あの時込み上げてきた感情から言うことの出来なかった別れの言葉は、案外さらりと口から流れ出てきた。

気が付いた時には彼女はもうこの小さな会議室から姿を消していて、代わりに静かに扉が開けられた。


「……あの、土田さん」


よく耳に馴染む柔らかなソプラノボイスに、俺はほっと息をついた。


「千春ちゃん」


扉からひょこりと覗かせた小さな頭。
俺が名前を呼べば、ためらうように揺れたあとにおずおずと顔を出した。


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