宵の朔に-主さまの気まぐれ-
瞼には薄く朱を塗り、じりじりと距離を取ろうとする女に対して朔はずんずん距離を縮めて手を伸ばした。


「名は?」


「は?どうして会ったばかりのあなたに名を教えないといけないのよ」


「通り名でいい。名は?」


「まずは自分から名乗ったらどう?」


――通り名は一応あるが、一度も名乗ったことはない。

幼い頃は百鬼夜行を継ぐ次代の主として皆名は呼ばず、継いだ後は“主さま”と呼ばれる決まりのため、どう名乗ろうかと逡巡した朔の足が止まると、女は後ずさりをやめて唇を吊り上げて笑った。


「名乗れないほど悪党というわけ?そういう雰囲気じゃないけれど」


真名を名乗っても別にいいか――

いや、真名を呼ばれてもきっと嫌な気分にはならないだろう――


朔が口を開きかけた時、突然女はすとんとその場に座って人差し指で眼前を指した。


「座りなさい」


「ん。で?名の件はどうしたらいい?」


素直にその場に座った朔が小首を傾げると、女は人差し指を頬に押し当てて空を見上げると、閃いたという顔をして自信満々に言った。


「名乗りたくなければ仮の名をつけてあげる。そうね、あなたのことを“月(ゆえ)”と呼ぶわ」


「ゆえ…?この国の名じゃないな。大陸由来か?意味は?」


「月よ。お月様のこと。あなたとても静かだしうるさくない。どうせもう二度と会うことはないのだろうし、別にいいでしょ」


どきっとした。

代々家系の者…直系の者はほとんどが月に由来する名だ。

心眼でそれを見抜いたのか――?


「へえ、博識なんだな」


「目が見えていた頃はよく本を読んだの。本の中だけが私の居場所だったから」


――目の前に居る女は、何かが違う。

目が見えていた頃と言ったが…以前は本を読み、今はその目は見えず、舞姫として生きている…

やんごとなき事情があるこの女に朔は興味をかき立てられ、また自然と手が伸びてしまうと女が上体を逸らして身を引いた。


「何よ、触らないで」


「じゃあ月でいい。お前の名は?」


「…そうね、じゃあ私も皆に呼ばれている通り名を名乗るわ」


自嘲気味に女が笑う。


「凶姫(まがひめ)。皆が私をそう呼んで近付かない。…どう?驚いた?」


自らそう名乗り、朔を怖がらせようとしたが――


朔はふっと笑い、女に顔を近付けた。

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