宵の朔に-主さまの気まぐれ-
椿はほとんど手を出すことなく朔の攻撃をいなし続けた。

そうしているうちに朔の目にも次に椿がどう動くか分かるようになり、椿の早い動きが目に追えるようになって道着に指が掠るようにもなってきた。


「ほう、少しは私の動きについて来れるようになったか」


「速さには少し自信があるので。師匠、脇ががら空きですよ」


「!」


ふっと身体を沈めた朔の長い腕がとうとう椿の脇の道着を掴んでそのまま力を込めて地面に押し付けると、それは半ば覆い被さるような形になったが、朔は息切れしていて体力の限界であり、これが最後の攻撃となった。


「やった」


「何故そこでほっとする?敵はまだ生きているぞ」


ようやく椿に触れられたことで無邪気に笑った朔の胸に掌底を打ち込んだ椿はまるで身体にばねが仕込まれていたかのような動作で飛び起きると、驚いて動けない朔の首に腕を回してぎりぎりと締め付けた。


「詰めが甘い。敵を掴んだならばすぐに殺せ。会話の余地など与えず絶命させろ」


「参りました、し、しょう…っ」


「しかしよくやった」


気絶寸前まで締め付けた後手を離した椿は少し満足そうな表情をしていて、ようやく及第点を与えられて座り込んだままほっとしていると――


椿が近寄って来て目の前で膝を折ると、きょとんとした表情の朔を――ふわりと抱きしめた。


「師匠…?」


「明日からは組手での本格的な鍛錬をやる。指先にまで神経を集中させ、なおかつ隙を与えてはいけない。それで私を倒すことができたら、褒美をやる」


「褒美?」


「何かは訊くな。今日はこれで終わりだ」


全く息も乱していない椿はすくっと立ち上がって朔を一瞥して屋敷に戻って行った。

朔はまたその場に寝転んで空を見上げながら、椿のやわらかさを反芻していた。


「柔らかかったな」


弱い女より、強い女が好きだと思う。

朔の心はより椿に近付き、褒美とやらを楽しみにしつつ自主練習も行うようになってめきめき力をつけていった。
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