宵の朔に-主さまの気まぐれ-
それからというものの、椿と朔の組手を駆使した鍛錬は苛烈を極めていった。

椿の指先を見ず椿の目を見ながら攻撃を繰り出す――一瞬の眼球の動きで次の動作を判断するというものだったが、最初こそ慣れずに手間取ったが、今となっては椿の攻めを耐え切ることができるようになっていた。


「お前は体術の才能こそなかったが元からして武の才がある。さすがは主さまのお子」


「前から不思議に思っていたんですが…師匠は父とどう関係が?」


「…私は鬼族の武家の子だ。主さまの家系とは遥か昔から縁があり、命あらば馳せ参じて力を貸すことこそが我が家の使命。しかも主さま直々に声がかかったから断れるわけがない」


しばしの休憩中、珍しく雑談に応じてくれた椿が首筋に伝う汗を手拭いで拭っているのを見ていた朔は、ふうんと相槌を打ってぼそり。


「てっきり父の愛人かと思ってた」


「馬鹿を言うな。主さまは息吹様を見初められてから一筋だ」


「見初める前までは女遊びしてたってことですね」


ふっと笑った椿に歩み寄った朔は、手に持っていた水の入った竹筒を差し出してにこっと笑った。


「で、師匠はもういい歳だと思うんですけど所帯は?」


「所帯など持つか。我が魂は全て武に捧ぐと決めている。お前はやたら私の身辺を訊きたがるが何故だ」


「単純に興味があるだけですよ。師匠みたく美女だったら引く手あまただと思うけど」


雑談は終わりだとばかりに背を向けて蔵の方に行ってしまった椿の背中を見送りつつ朔もまた屋敷に戻って縁側で一息ついていたが――


何者の気配もない所まで歩いて行った椿は、腰に手をあてて深いため息をついた。


「あの小僧…私を美女と言ったな」


…褒められることには慣れていない。

今まで誰にも褒められずに生きてきたから。


無邪気に笑った朔の顔が脳裏に焼き付いて苛立った椿はその後――朔をこてんぱんにして八つ当たりした。
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