宵の朔に-主さまの気まぐれ-
決して手加減しているつもりはなかった。

だが朔は自分の速さについていっているし、油断すれば鋭い爪で引っ掻こうとしてきていた。

鬼族の爪は切れ味が鋭く少し引っ掻いただけでも椿の道着は大きく裂けて、胸が露わになって朔は咄嗟に上を向いて視界に入るのを避けた。


「すみません」


「…いや、いい。だが敵が女であっても今のように目を背けるな。お前は当主になるにあたって様々な女に言い寄られるだろう。中には寝首を搔こうとする者も居るかもしれない。だから決して油断をするな」


「はい」


朔は従順で、教えたことはすぐこなしてものにしてしまう。

かなり年下ではあったが――強い男に無条件で引かれる性としては、これ以上時間をかけるのはまずいと思い始めていた。


「ではもう一度」


椿の胸元は大きく斜めに裂けたままで、魅惑的な椿の肢体に集中力が妨げられた朔は、それも椿の策略だと分かっていつつも抗議の声を上げた。


「師匠、それは卑怯なんじゃ」


「何がだ?もう一度言うが、お前の命を奪いに来る者も必ず現れる。それが女な場合、お前は今のように目を逸らすつもりか?」


「いえ、そういうわけには。師匠、いきますよ」


渇を入れられて気を引き締めた朔は、軽やかに攻撃を繰り出してくる椿の目を見据えたまま華麗に技を避けて、鋭く放たれた肘鉄を衝撃をいなしながらやわらかく受け止めて、鋭い爪を椿の首元にぴたりとあてた。


…もう、朔には十回中八回は負けてしまう。

ここらが潮時――


「お前にはもう教えることがなくなったようだな」


「師匠のおかげ強くなれました。ありがとうございます」


「去る前に、褒美をやる。今晩、部屋で大人しく待っていろ」


「今晩…部屋で?」


きょとんとしている朔にこれ以上かける言葉はないと言わんばかりに踵を返した椿は、暮れてゆく空を一瞬見上げて風呂場に向かった。


教えることは、あともうひとつ――

確かめることが、もうひとつ――


「…引きずり込まれるな、椿」


自身に言い聞かせて、何度も冷水を被った。
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