宵の朔に-主さまの気まぐれ-
翌日――朔は鍛錬を拒んで椿を仏頂面にさせた。


「まさか私を気遣っているんじゃないだろうな」


「腕の腱を痛めたみたいであまり力が入らないんです。師匠もぼろぼろですし、今日はやめておきましょう」


庭の鯉に餌をやりながらそう言うと、少し離れた所に立っていた椿は意を決して朔の隣に立った。


「…じゃあ私の話をしてやる。約束だったからな」


「え、いいんですか?」


「いいも何もそう約束した。…私は武家の娘。だが…妾の子だ」


――よくある話だ。

朔の家もまた祖父以前の代には妻が何人も居たため、それは名家としては珍しいことではなかった。

だが複雑な事情が絡むことが多いため朔も不用意にそれ以上訊くことはできず、曖昧に頷いた。


「正妻にも子は居たが、武の才能はからっきしだった。私にはそれがあり、父の期待を背負ってまさに血を吐くような努力をして…期待され続けて……どうしたと思う?」


「…分かりません」


「‟婿を取って我が家を継ぐように”。そう言われて…家柄が同格の男を婿に取った。つまり子作りに励め、ということだ」


椿が池に近付くと、殺気にあてられて鯉がわらわらと逃げていく。

朔はじっと黙ったまま、湖面を見つめていた。


「だがしかし…私たちの間には一向に子ができなかった。…私には子を生める能力が備わっていなかったんだ。よって私は正妻の子よりも格下の…存在すら否定され、罵倒され、一切を拒絶されてしまった」


「師匠…」


「もちろん離縁となった。そして私に子ができないと分かった途端…正妻の長男は私を慰みものにするようになった」


「え…ですが義兄妹ですよね?」


「だから父たちに隠れて物置に連れ込まれて、暴力を振るわれて…それはもうこれ以上お前には言えないようなことをされた。…だがこの時すでに私の心は崩壊し、全てを捨てていた。魂も…誇りも」


風が吹き、椿のいつもの無表情な美貌は苦痛に歪んで爪は掌に食い込み、朔はそっと椿の手を握った。


「…それで?」


「殺した。当然だろう?父は…母は…兄が私に歪んだ感情を持っていたのを知っていた。私は情事の最中、兄を殺した。その現場をわざと父たちに見せた。…私は狂っているだろう?」


――それは、あまりにも悲惨な物語だった。

朔はただただ、その手を握ることしかできなかった。
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