宵の朔に-主さまの気まぐれ-
「ベルン……」


――その名は、黄泉の真名だった。

‟冥”はその真名を一度も呼んだことがなかった。


そして真名を呼んだ冥の声は――かつて愛した女の声そのものだったのだ。


「アイリス…?」


「ベルン…迎えに、来たわ」


「そんな…お前は…お前は死んだはずなのに」


信じられない、という顔をしていた。

もうぴくりとも動かない身体だったが、渾身の思いで顔を上げて、胸に顔を預けている冥…いや、アイリスを驚愕の思いで見つめた。


「あなたに蘇らせられたわ。首から上は私…だけれど、首から下は私じゃない。だから私は私じゃなかった。ふふ…信じられないって顔してる」


「だって…お前の魂は昇華して…」


「ええそう、私は天に召されたの。そして転生して再び生まれ変わる準備をしていたわ。そしたらふふ…あなたの術によって引き寄せられて、今の私が居る。でも私の身体じゃない。だから私は貝のように口を閉じてあなたの傍にいた。ねえベルン…ずっと傍に居たのよ」


輝夜はその告白を聞きながら目を閉じた。

それが冥の虚言なのか真実なのか…

輝夜には分かっていたが、敢えて口を挟まずに、嬉しそうに笑った後後悔に身を焦がす男を静かに見下ろしていた。


「俺は…俺はずっとお前を蔑ろにして…」


「ふふふ…いいのよそんなことは。ねえベルン…あなたは死ぬのよね?私も一緒だから寂しくないわ。私、あなたの腕に抱かれて死ねたから寂しくなかった。今の私に腕はないけれど、傍に居るから。ずっとずっと」


ふふふ、と囁くように笑うのは…かつて愛した女、アイリスの癖だった。

今まで無表情でいたのも、声色がばれないように無口でいたのも傀儡としてアイリスを蘇らせようとしたことが天罰のように感じて、ふっと笑みが漏れた。


「そう、か。そうだな、それは寂しくない。…アイリス…俺はお前と…同じ場所に…行ける…か…?」


「ええきっと。私が連れて行ってあげるから…」


「そうか…」


アイリスが微笑む。

その微笑みもかつてよく知っていた儚げな微笑。


黄泉…いやベルンは、目だけ動かして泣きそうになるのを必死で堪えているような表情で見下ろしている凶姫に笑いかけた。


「お前のおかげで…アイリスと会えた。ありがとう」


「…今度は同じ場所で悪事とは無縁の者として生まれ変わって」


「ああ…そう…する……」


ベルンが幸せそうな表情で目を閉じた。

そしてもう、目を開けることはなかった。
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