宵の朔に-主さまの気まぐれ-
凶姫は朔の方を見なかった。

いや…見れなかった。

――強い光を目に受けないようにするため薄目でいたが、それでも…それでも朔の美貌に目が潰れそうで、胸がばくばく音を立てて、正面から見ることなど到底できるはずもなかった。


「芙蓉?」


「朔…その…私、手が血まみれでしょう?だからちょっとお風呂に…」


「じゃあ俺も一緒に」


「だ、駄目よ!私もう目も見えるんだし、だ、大丈夫だから」


焦って顔が赤くなって、手でぱたぱた仰いでいる凶姫の顔を朔が覗き込むと、凶姫はぱっと顔を逸らして、そして逸らした先に柚葉がどこか所在なさげに立っているのを見て目で何度も合図を送った。


その時柚葉は何故か満面の笑みで輝夜に見つめられていて、どぎまぎしていた。

輝夜はもう旅に出ない――それはつまりここに残るということ。

そして…


「ではお嬢さん、例の約束の件ですが、今夜頂きに参ります」


「えっ!?ちょ…鬼灯様、それはさすがに性急じゃ…」


「いえいえそんなことはありませんよ。私も少々確認したいことがありますし。さあさあ」


「ええと、ちょっと待…それはその…」


視線を泳がせながら何かいい案が浮かばないかと冷や汗をかいていた柚葉は、その時凶姫と目が合った。

あちらはあちらで何やら尋常ではなく焦っている様子で――

ふたりは目が合った瞬間――分かり合った。


「姫様っ!」


「柚葉っ!」


駆け寄った二人は、互いに手を取り合って、同時にこくんと強く頷いた。


「ところで朔、私たちこれから一緒にお風呂に入って、その後ふたりで沢山お話するから私たちのことは気にしないであなたは輝夜さんと夜通し喜びを分かち合ったら?」


「え?いや、俺は目が見えるようになったお前と…」


「そういうことなので鬼灯様、約束の件はまたいつかっ!」


「え?またいつかっていうのはいつ…」


手を取り合った凶姫と柚葉が脱兎の如くその場を離れて縁側に上がり、居間を通って屋敷の奥へ消えて行くと、朔と輝夜は顔を見合わせて唇を尖らせた。


「なんだあれは」


「まんまと逃げられましたねえ…。では兄さん、言われた通り兄弟で喜びとやらを分かち合いましょうか」


肉食獣二匹、獲物に逃げられてがっかり。
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