アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
表情を変えずに。まるで天気の話でもするように、シエルがそう切り出した。
ぐ、っと。奥歯を噛む。
一番恐れていた事態。
開戦は避けられない。
とうに分かっていた。
だが。
その始まりを告げるのが、この場所で、この男だなんて。
「上にまだ、シルビアがいる。今ここで降伏して城を放棄しなさい。そうすれば命は見逃してやろう。シルビアにかけあって」
「…なにを、馬鹿なことを」
「国を棄てろと言っているんだ」
「…それがどういうことか、分かっているのか…?」
おそらく自分は、わらっていた。泣いてはいなかったはずだ。どんなに胸が痛んでも。
シエルが真っ直ぐ見据えているその瞳。
自分と同じ色。揃いのそれが、昔は誇りだった。
憧れていた。この人に。
「国を捨てるということは、国民を見殺しにするということだ…王だけがおめおめと生き延びるなどとそんな愚かな話があってたまるか。おれはこの国の国王だ! おれの首を持っていけ! …民の命の代わりに……!」
港では今もきっと。
多くの兵士が、魔導師が、志願の民兵が。戦の準備を進めているだろう。
開戦する以上、まだこの国が国で在る証拠。
この国がまだ残っている限り、例えおれが捕えられている間もその命令は覆らない。
家族を、友を、生まれた地を守る為。
死ににいくのだ。
国を、おれを守る為に。
「…変わらないね。シアン。そんなおまえの真っ直ぐな心が、民の心を動かすのだろう。そして、その心が。民の命を奪うのだ」
「……!」
――マオの腕に、抱かれていた。
血だらけの少年。マオがジャスパーと、呼んでいた。
マオを庇い神の力によってその命を奪われた、この国の民。
いや、違う。
彼はこの戦争の最初の犠牲者だ。
命じたのはおれなのだ。
この戦争の、国の為に尽くせと。
マオからあの少年を奪ったのは、おれだ。
「おまえに何と言われようと、思われようと。僕はこの国を手に入れて、そして亡ぼす。必ずだ」
「…っ、だったら!」
バン! と、透明な見えない壁を思い切り叩く。
目の前に居るシエルにこの拳は届かない。
その目はもうおれを見てなどいない。
その心は既に、遥か遠い。
こんなに遠くまで来てしまったのか。おれ達は。
「だったらおれを殺せシエル! おれの命はこの国と共にある! 例え呪いだろうとおまえの手であろうと! おれが生きている限り、誰にも奪わせはしない…絶対に!」
「……」
シエルは息を吐き出すように、小さく笑った。
それは小さな憐みと、遠い昔に見た慈しみにも似た。
どうして、そんな顔で笑うのか。
今おれからすべてを奪おうとしているのは目の前の兄に他ならないのに。
どうして昔のように、兄の顔をおれに晒すのか。
「この世界にいる限り、おまえがこの国の王である限り、その呪いは解けやしない。その身を、魂を、灼き尽くす。おまえがおまえである限り、おまえは死に向かうのだろう。自分の掲げる正義の為だけに。それはとても愚かでひとり善がりな選択だよ、シアン。今のきみには、誰も守れない」
胸を刺すその言葉に、一瞬呼吸が止まるような錯覚。ぐ、と拳を握りしめる。
そんなおれを見つめたままシエルがパチンと指を鳴らす。それと同時にその後ろから、静かにリシュカが現れた。
「リシュカ! 無事だったか…!」
「…ジェイド様…!」
ふ、と結界が突如解かれ、ベッドの上から転げ落ちる。
油断していた。リシュカが慌てて駆け寄ってくる。
「最後の猶予をあげよう。決めるのはおまえだ、シアン。ちゃんと別れをしておいで」
「…どういう、ことだ…?」
「…今回の、アトラスとの契約。あの力と性格は想定外としても、一番の想定外はあの少女。確か、名前はマオ。…おまえが異世界より喚(よ)び出したんだってね。まるで伝承の少女のように」
「…! 何を、言って…」
「この戦いの勝敗を、大きく左右し得る存在。未知であり、けれどもあの力は脅威だ。もう捨てては置けない。あの子をもとの世界に帰しなさい。でなければ、僕が彼女を殺す」
「……!」
何を、言っているんだ。
頭が上手くついていかない。
だがシエルの懸念は理解できる。
マオが神の力に覚醒した瞬間を、おれも見ていたのだ。
力を手にし、その力に呑まれそうになるその瞬間を。
そして自らの刃で、血まみれになるあの姿を。
この世界で、マオは。
自らの力で自分の居場所を、役目を、味方を勝ち得てきた。
おれの助けなどなくとも、ひとりで。
それなのに。
望まぬ力を手に入れて、そして大事なものを失った。
きっと今、絶望の淵に居る。
あの泣き顔が何度も胸の奥を灼く。
戦争が始まれば、もしかしたらまた。
もうこれ以上マオに…失ってほしくない。
まだ間に合うのなら…帰れるのなら――
シエルは言葉を呑み込むおれから視線を外し、部屋の片隅で壊れた壁ばかりを見つめているリズの方へと向けた。
「リズ、きみも。行っておいで。きみの探し物は、そこにある」