アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~


 シアがそっと腕の力を抜いて、あたしをその腕から解放した。
 おそらくシアがもう大丈夫だとそう判断したのだろう。
 この船に、自分の意思に背く者は居ないと。

「皆が同じ気持ちのもと。おまえとの決別を受け容れている。後はおまえだけだ、マオ」

 シアは変わらず優しい声で、あたしの顔を覗き込む。
 諭すようなその声音。後はあたしを説き伏せるだけ。自らの意思で帰るようにと。
 おそらくそうしなければいけない理由があるのだろう。
 
 リズさんが扉を開き、無理やりにでもあたしを連れて行く算段だった。
 でも、リズさんはあたしに触れられないという。
 ひきずってでも連れていってもらうつもりだったに違いない。
 だから最後はあたしに、自分から門をくぐってもらわねばならなくなった。

 シアも、詰めが甘いな。
 きっと相当な覚悟を以てここに来ただろうに。

 あたしが居なくなったら困るはずだ。
 あたしのこの、中途半端とはいえど神の力。それがなくては戦争に勝つことはあり得ない。今の現状では。
 だってこの世界にはもう、シアに味方してくれる神さまは、居ないのだから。

 ――あたし以外。

「嫌。あたしは、帰らない。あたしはここに残ってやり遂げたいことがある。それが済むまでは絶対に、帰らない」
「……ッ、マオ!」
「あたしの気持ちを蔑ろにしないで! あたしの気持ちは…っ、聞いてくれないの…?!」
「すべて命あってこそだ! この世界に居ては、おまえはただ消費されていくだけだ! もはやおまえという異質な存在は、他の神々ですら捨て置けぬ存在。もう、おれひとりの力では…! 守ってやれないんだぞ!」
「そんなのいいよ! 守ってくれなくて良い、誰にも守ってほしくない…! あたしは、もうこれ以上…っ」
「それはお前を守る為に命を懸けたあの少年への冒涜だぞ!」

 がしりとシアが、あたしの両肩を強く掴む。
 その強さと剣幕に思わず息を呑む。
 やっぱりシアは、すべてを視ていた。知っていたんだ。

 じわりと、涙が滲む。
 上手く言葉が出てこない。
 いま、伝えなければきっと。
 これが最後になる。なのに。

 目の前のシアの顔が苦しそうに歪む。
 痛いのは、あたしだ。泣きたいのはあたしの方だ。
 なのにどうして。

「ちゃんと、生きてくれ、マオ。この世界の為にではなく、おまえの為に。ここに居るすべての者が、それを心から望んでいる」

 嫌だ。なんて思われてもいい。言われてもいい。
 軽蔑されても嫌われても、みんながそれを望んでいなくても。
 あたしは、この世界で――

「俺が連れて帰る」

 突如伸びてきた腕に、自分の体が強く引っ張られる。
 驚いて視線を向けると、あたしの腕を掴んでいたのはリュウだった。
 その瞳は何を考えているのかよくみえない。
 眩いばかりの光の中、眼鏡のレンズに反射して。
 露わになった制服の、胸元の校章。それがやけに目についた。

 今度はリュウが、シアと対峙する。
 リュウは現状敵国の捕虜という扱いだ。
 シアがそう簡単に信じていい相手じゃない。
 なのに。

「…分かった。任せる」
「…! リュウ! やめて、離して!」

 理解できない。
 受け入れられない。
 今ここに、あたしの味方は誰もいない。

 リュウは暴れるあたしをシアの腕から引き離し、それからその目をイリヤに向けた。

「アールを頼む」

 その一言に、イリヤが黙って頷く。
 どうして、リュウが。
 あたしの知らないところで、あたし以外の意志で。
 勝手に決められていく。あたしが望んでもいない別れを。

 状況を理解できないあたしを置いて、シアが身を起こし光を仰いだ。

「頼むリズ!」

 シアの言葉に一瞬の間を置いて、光が応える。
 その光はやがてあたしの足元へと集まり、一瞬の浮遊感。
 光の柱が船に建つ。
 あたしとリュウを包むように。

「いやだ、シア…! みんな…!!」

 リュウの腕の中でもがくように、足掻くように。
 泣きながら叫ぶけれどその声は誰にも届くことはなかった。

 溶けていく光の向こう、あたしの伸ばした手の指先に、そっとシアが同じ指で触れるだけの別れを告げた。いつものように笑いながら。
 あたしはその儚い温もりに縋りながら、必死に手を伸ばす。

 シアの、青い瞳。
 そこにあたしはいるのに。

「シア! あたしは…! もう、要らないの……?」

 言葉の最後が、震える。
 あたしの言葉にシアがくしゃりと、繕っていた笑みを消す。
 それから顔を歪めながら、あたしの手を強く握りしめて、ほんの一瞬だけ泣き顔を晒した。

 ぐ、っと強く瞼を瞑って、呑み込む感情。
 苦悩と葛藤の混じるそれにあたしは縋る。何度だって。

 傍に居させて。
 離れたくない。
 あたしは、ここに居たい。
 シアの傍に――

 そんなあたしの最後の願いを、掻き消すのはやっぱりシアの笑み。
 泣きながら、もう隠そうともせずに。

「――ああ、そうだ。マオ、もうおまえの力は必要ない。この国のことは、この国で生きる者たち達が必ず守る。だからもう、いいんだ。マオ。おまえは、もう、要らない。もう充分だ」
「……!」

 それからゆっくりとシアが、絡んでいた指を解く。
 最後に残った指先に、別れのキスを残して。

 笑っていた。
 すべての迷いを捨て去って、そこにあたしという存在も乗せて。
 それが最後の瞬間、あたしが見たシアの姿だった。


 すべてが光に消えていく。

 青い海も
 貴石の王国も
 そして大事なひと達も、すべて。





 そして、あたしは。

 目が覚めたそこはもとの世界。
 旧校舎のプールに居た。


 失ったという記憶だけを、今度は失わずに抱きながら。


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