アイより愛し~青の王国と異世界マーメイド~
第14章 遥か彼方、わすれもの

1



 月がとても綺麗だった。
 あの満月を、どこか別の場所で誰かと見ていた気がする。

 誰だろう。どこだろう。

 思い出さなければ、はやく。
 月があの海に沈む前に。
 太陽がすべてをまたはじめる前に。
 
 あの人が行ってしまう。
 あたしを置いて、哀しみだけを抱きながら。

 あたしはずっと、ここに居るのに。


―――――――…


 目が覚めるとそこは、自分のベッドの上だった。
 ひとり暮らしのあの部屋ではなく、実家の自分の部屋。
 見慣れた天井、部屋の匂い。高校に入学して家を出て以来、帰ってこなかった部屋。
 どうしてここに居るのだろう。

 カタン、と。
 小さく音がした方に頭だけ向けると、部屋の扉の隙間から覗く影。
 目が合って、びくりとその影が後ずさり、一目散に階下へと駆け下りていく足音が家中に響き渡った。
 
「お、おとうさぁん! め、目が、覚めた…! 起きたみたい…!」

 久しぶりに聞く、幼さの残るその声。
 湊(みなと)だ。
 父の再婚相手の連れ子、血の繋がらない妹。

 薄く開いた扉越しに、階下が騒がしくなるのを感じる。
 ぼうっとそれを聞きながら、再び視線を天井に戻した。

 どうなったんだろう。
 あたしはなんで、ここに居るんだろう。
 だって、あたしはあの海に――

 そこまで考えて、思い出して。心臓が握りつぶされるような痛みに体を曲げる。ついでに脇腹にも激痛が走った。
 それでもどんなに痛くても、自分で自分の体を抱いて、慰める他に術はなかった。

 あぁ、痛い。なんて痛い。 
 なんて、ずるい。
 笑ってさよならを言うなんて。
 もう要らないなんて、そんなひどいことを。
 本心で言っておいて、泣くなんて。

 ひどい。
 ずるい。
 どうせなら。
 いつもこの世界に引き戻される時と同じように、また曖昧な記憶のまま。一生思い出さないでいさせてくれれば、少しは救われたかもしれないのに。

 今度はちゃんと覚えている。
 ぜんぶ、この心と体が。
 痛みを通して訴える。
 要らないと切り捨てられたこと。

「……どこか、痛いんですか」

 薄暗い、自分だけだと思っていた部屋に、静かなその声が沸く。
 ベッドの上で体を曲げて蹲(うずくま)ったまま視線を声の方に向けると、そこにはもうひとりの血の繋がらない兄弟、海里(かいり)が居た。

 涼しげなその瞳はまっすぐあたしを見つめている。
 だけど不思議ともうそれを、冷たいものだとは思わなかった。
 代わりに別の人の影がふと重なって、胸に痛みと熱が甦る。
 どことなく面影が、似ている気がしてしまうから不思議だった。

「今、お医者さまを呼んでいます。すぐにおとうさんも来ますよ」
「……そう」
「あなたが学校で倒れたと家に連絡がきて…それから家まで連れて帰ってきたんですが、あなたはぜんぜん目を覚まさなくて。目が覚めたらお医者さんに連絡すると、そういう約束だったんです。だから」
「…そっか」

 普段海里は基本口数も少なく感情表現も乏しい、そんな印象だった。
 一緒に暮らしていたのは僅か数ヶ月。たったそれだけで、分かった気になっていた。
 何も知ろうとしなかっただけのくせに、あたしは。

「あなたを、一番心配していたのは、おとうさんです。当然です。だってあなたは」

 あたしはゆっくりと体を起こし、それから僅かに距離を空けた場所で立ち尽くしたままの海里に向き合った。
 この距離は、そのまま。あたし達の心の距離でもある。
 信頼には到底足りない。俯かれてはその表情も見えなくなる。
 だけどあたし達はずっとそうしてお互いに、目を逸らし続けてきたのだ。
 ここまで。
 ――でも。
 今だけはきっと。逸らしてはいけない。絶対に。

「おとうさんの、本当の子どもなんですから。勝手に、出ていったくせに…! おとうさんの心ごと半分持っていってしまったくせに、これ以上…見せつけないでください、血の繋がりには勝てないと、ぼくらに。あなたは、ずるいです…!」

 ぎゅっと、その拳に力を込めて。海里がその顔を歪めて涙を零した。
 それは行き場のない怒りと持て余した哀しみが入り混じったもの。
 憤りとやるせなさ。いろんな感情が混じり合ったもの。
 初めて見せる海里の本音。
 あたしへの妬みと少しだけの情を感じた。
 今まで気づけなかったもの。

 きっと海里の言う通りだ。
 一緒に暮らしたくないとか、受け入れられてないとか気が合わないとか、そんなの全部言い訳で。
 少しでもお父さんの気をひきたかっただけ。
 心配して欲しかった。気にかけて欲しかった。
 誰よりも一番にあたしのこと、考えてほしかった。

 お義母さんや海里や湊よりも、あたしのことを、お父さんが。
 大事だって思ってほしかった。

 だってあたしにはもう
 お父さんだけだと思っていたから。

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