ハイスペック男子の憂鬱な恋愛事情
ゆっくり唇と手を離し、側にあるスケッチブックを掴むと、コイツの胸の上に置いた。

「……、ま」

「彗大」

呼ばれる気配を感じて、呼ばれる前に訂正を試みる。

自覚した以上、このマヌケな呼び方を仕切り直すなら空気的にも今だと望みをかける。が。


「けい、た」

「うん」

「……。ま彗大」

「……なに」

ああ、くそ!決まらねぇ!




「日、暮れんの早くなったよな」


すっかり真っ暗なアトリエに、外から街灯の明かりが差し込む。

でも、それだけあればスケッチブックをぎゅっと握りしめているのも、コイツの眼の奥に今、すごい情報量の色があることも読み取れた。

「………」

ああ、さっきからお前の言いたいことはわかってるよ。

コイツは今、描きたくて描きたくて仕方ない渦の中だ。だからーー


「描きたいの」

「知ってる」


腕を掴んでゆっくり引き上げてやったら、握りしめたスケッチブックを置いて、きっとコイツはこう言う。


「彗大、今の、もう一回魅たい」


ああ、なんなんだろう、この女は。

こんな時だけ、彗大と呼ぶ。

そして迷いなくふしだらなおねだりをするこの女が、なぜ俺の眼にはこんなにも、誠実に映るのか。


「指じゃなくて?」

「コッチ、の方がいい」

「………」

“前の指”とは違って余韻をたっぷり残してやった代償か。それとも計算か。

コッチ、と言って一瞬だけ俺の唇に触れに来た指が。
あざとい半開きの唇が。

どちらにせよ、ハニートラップ以上の威力があることを、多分コイツは今、気付いてやっている。


「彗大、はやく」

もう一度名を呼び、性急にねだるコイツの瞳に俺が映る。

けれど今、コイツの眼には俺は殆どいないだろう。

ーー俺の恋情をも利用する、コイツの色への貪欲さ。

でも、今はもうどうでもいい。


「口、開けて」


こんな薄情な女でも愛おしいと思ってしまうんだから、俺はそこそこ重症だ。


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