妄想は甘くない
かりそめの婚約者

十数分後、そろりと会議室のドアを開け、外の様子を窺った。
廊下は特に人通りはなく、ほっと胸を撫で下ろして足を踏み出す。

打ち合わせと伝えて席を立ってはいるものの、そろそろ戻って退勤の意思を表明しなければまずい。
この人もこれから残務処理等があるのではないだろうか……?
妙な冷静さを取り戻し、そんなことを頭に浮かべつつ見上げると、スーツの襟を正していた人が振り返った。

「連絡先」
「……えっ?」

「教えてよ。IDとか」
「…………」

真面目な顔が続けるので、うろたえて目を瞬きつつも、逸らせずに見つめ合う恰好となる。
それって、わたしと真面目に恋愛して行こうという意味……?
……とは限らないんじゃないか? と心で自問自答して、頭を回転させた。

「えーと、今はスマホを持ってないけど、IDは……matsuri929……だったはず」

耳に入れるなりアプリを開き、検索を掛けているらしい。

「……この、白い花の写真の?」
「……はい」

「俺のも登録しといて下さいね。この、スノボの写真のですから」

画面をこちらへ向けて薄く微笑む人は何処か楽しそうで、意地悪さも感じられる顔にもかかわらず、何故か照れが入ってしまい俯いた。
すると躊躇いがちにふわりと頭に伸ばされた掌の感触に、驚いて動けずに目を見張った。

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