鬼の生き様

京へ


文久三年(1863年)二月八日
小石川伝通院。

 この日、浪士組は江戸を発ち、京へと向かうのだが清河八郎の旅衣装というのは奇抜で、今から長旅になるというにも関わらず高下駄を履いている。

佐々木只三郎は、呆れ顔で清河を見ていた。
この男は、幕臣であり身の丈は六尺(約180cm)もある背の高い男で、肌は浅黒かった。

「いよいよ京へと旅立つ。
東海道を通って行こう」

清河はそう言ったが、佐々木はそれを却下した。

「清河さん、東海道でこの二百余名の浪士達が京へ行くのは如何なるものかと」

清河からしてみれば、東海道で行けば目立つだろうと思っていた。

「宿場の者や道中旅人の者からしたら、この大人数が表(東海道)を通るのは邪魔になるだろうから、ここは中山道を使って行きましょう」

尊攘過激派の連中が、この浪士組という大所帯に刺激をされ、さらに天誅の嵐が吹き荒れるのを防ぎたいという考えも佐々木にはあった。

「なにより東海道では川止めに遭う恐れもある。
公用の時には、幕府も中山道を使うものだ」

幕臣でもない清河が、公用に中山道が使われていることなど知る由もなかった。
山岡鉄太郎も佐々木の意見に賛同をした。

「そうですね、清河さん。私も中山道を通るほうが得策だと思う」

「…致し方ない。
山岡さんもそう言うならば、中山道を使う事にしよう」

清河は断念したかのようにそう言うと、池田徳太郎は不服そうな顔をしていた。

 池田徳太郎は道中先番宿割を任されている人物で、清河とは安政年間からの友で、同志であった。
清河が発足した虎尾の会にも参加していた為に、ハリスの通訳として来ていたヒュースケンを暗殺したという嫌疑をかけられ、投獄されていた。

 清河も勿論、ヒュースケン暗殺の疑いをかけられており、文久元年(1860年)に清河は役人に問い詰められている所を癇癪をおこし斬り捨てその場から逃れた。
その事件をきっかけに、妻のお蓮や、弟の虎三郎達が投獄されてしまうのだ。


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